今日は見知らぬおばさまに対して、
「あなた、ちょっとそれ、私に対してあまりにも失礼ですよ。
傷付きました。謝って欲しいです。」
と言って怒る夢を見ました……。
でも、そんな内容の夢であるにもかかわらず、
寝起きはすっきりしています。
前は、誰かに対して怒りを覚える夢なんか見てしまったら、
それこそ、一日中ぐったりして、
使いものにならなくなっていたのに。
いや、これ、比喩なんかじゃなく、リアルにそうだったんですよ。
私という人間は、ほんとうに、「怒る」ということが下手だったんです。
怒ったら怒った分だけ、きっちりと我が身にダメージを受けていました。
それはたぶん、怒りの表現の仕方が下手すぎたから。
そこに罪悪感を持ちながらやっていたんですね。
怒りを覚えている自分を認めていなかったし、ゆるしていなかった。
これって、車のアクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものですよね。
心身ともに相当なダメージを受けて当然です。
でも、私も、いつしか、「これじゃだめだ」と気づいたのでしょうね。
その気づきがあってから、少しずつ、少しずつ、
ちゃんと、そのままの大きさで、
怒りというものを表現できるようになった。
すると、それに付随して、
悲しみの表現も、よころびの表現も、
少しずつ、少しずつ、上手になっていったんです。
ありとあらゆる感情すべて、
それを感じた瞬間に、ぱっと表現して、
その場で完結させることができるようになった。
もちろん、いつだってうまくいくわけじゃなくて、
失敗することだってたくさんたくさんあるのですが、
それでも、だいぶ、生きることが楽になりました。
ぜんぶ「縁」なんだ、と思ったら、
自分の抱いたすべての感情に対する罪悪感は消えます。
相手が失礼なことを言ったのも「縁」。
自分がそれに対して怒りを覚えたのも「縁」。
すべて、そういう「縁」だった。
怒りを覚えるという「縁」を得たのなら、
それをただ、その場で、その分の大きさで、
きっちりとあらわすだけ。
以上!
……ということです。
ポイントは、思考を差し挟まずに、
感情を感情そのものとして、そのままの大きさで表現すること。
その際に、「相手」ではなく、「私」を主語にすること。
「私はこう感じました」「私はこのようにして欲しいです」など、
「私」を中心に置いて伝えると良いですね。
「あなたのやり方は間違っている」
「あなたはこのようにするべきだ」などと言って、
相手を責め立てても、お互いに嫌な思いをするだけで、
なんの解決にもならないことの方が多いです。
なので、こういうのは、
あくまで、「私の要望」というところから話をすると、伝わりやすいです。
そして、必要以上にネチネチとした表現を続けず、
言いたいことをばしっと言い切ったら、あとは忘れてしまうこと。
これも、かなり、大事なところだと思います。
まあ、こういうのだってぜんぶ縁次第で、
うまくいかないときだってあるのですが、
(私もこの間大失敗しました……。)
でも、これらのことをこころに置いておくだけで、
だいぶ違ってくるっていうことは、あるんじゃないかな、と思います。
私という人間は、一瞬固い表情をして、なにか厳しいことを言っても、
次の瞬間にはゆるんで笑っているのだそうです……。
表情のふり幅がものすごく大きいよね、と、
先日、夫にも言われました。
言われてはじめて気がつきましたが、
ああ、確かにそうかもな~、と。
意識的にやっているわけではないのですが、
まあ、瞬間ごとに完結させている方が、自分自身が楽なのでしょうね。
「縁」によって、瞬間ごとに立ちあらわれる、ありとあらゆる感情を、
混じりっ気なく、その大きさのままに表現することができたなら、
その瞬間に、それは「成仏」しているんですね。
あたまで、ああでもない、こうでもない、とこねくり回して、
そこに、罪悪感や羞恥心や、
その他もろもろの不純物をくっつけてしまうと、
「悲しみオバケ」や「憎しみオバケ」が発生してしまうのだと思う。
結果、それらに取り憑かれて苦しむのは、自分自身、なんですよね。
いいんですよ。
思いっきり怒ったって。泣いたって。笑ったって。
ぜんぶ「縁」なんだから。
ほんとうに、すべては「縁」であって、
それ以上でも、以下でもないんです。
その場で、その分の大きさで、
すべてを表現することができたのなら、
もう、それでいいんです。
それだけでいいんです。
すべての人が、それを自分自身に許可できたらいいのにな、
と、本気で思っています。
ほんとうの平和は、そこにしかないような気がするからです。
東京は、冷たく湿った曇り空です。
よい一日をお過ごしください◎