昨日の朝、ある方と、
「いつだって“しあわせ”を真ん中に置いて生きていけたらいいですね」
「そうしましょう! というか、すでにそうしている、かな?」
「そうしていますね!」
というやりとりをしていました。
(朝っぱらから……! 笑)
「“しあわせ”を真ん中に置く」って、イメージできますか?
これ、比喩なんかじゃなくて、
実際に「置く」ことって、できるんですよ。
具体的には、
私がことあるごとに言っている
「あったかくて、なつかしくて、ひろがっていく」感覚、
これを、からだの真ん中、
もっと言えばおへその下、
丹田と呼ばれている部分、
女性の場合、ちょうど子宮があるあたりに、
実際に、「置く」んです。
ただただ、それを感じるんです。
これって、本来いつだって「ある」感覚なんですよ。
それが感じられないのだとしたら、ちょっとあたまの方に
意識がかたまりすぎちゃっているかもしれないですね。
でも、それだけです。
そうなっているのだとしたら、ただ、ゆるんでしまえばいい。
具体的に言えば、あたまの方にのぼってしまっている気を、
少しずつ、少しずつ、
ゆっくりとした呼吸(吐く息に意識を向けてください)とともに、
おへその下のあたりにまでおろしていくんです。
そうイメージするんです。
これをやるだけでも、だいぶ変わってくると思います。
※今年の1月8日の記事が参考になるかもしれません。
で、です。
この「あったかくて、なつかしくて、ひろがっていく」感覚、
つまりは「しあわせ」の感覚を、
それそのものとして味わえているときって、
「自分」と「世界」との境目がなくなって、
「世界」としての「自分」、
「わたし」としての「世界」を、
直に(←ここがポイント)生きているんですね。
「世界」のすべて、「ご縁」のすべて、
それをそのまま「自分」そのものとして生きていく――
「しあわせ」を真ん中に置いて生きていく、
もっと言えば、
自分を「しあわせ」にする、
自分の「しあわせ」を守る、
って、本来、こういう意味のことだと思うんです。
「世界」に「自分」をしあわせにしてもらおう、
と、あくせくすることなんかない。
「世界」そのものとしての「自分」を生きることさえできれば、
そのままで、すでに、「しあわせ」なんです。
これ以上の「しあわせ」なんて、ないんです。
……そうなってくると、おのずと、
「この私(個の私)」の行動は、決まってきますよね。
目の前の「世界」を、すべての「ご縁」を、
まるごとそのまま、ありのまま、
「自分」そのものとして、愛してしまう――
もう、それだけですね。
ほんとうに、それだけなんです。
うつくしいだけじゃない、
やわらかいだけじゃない、
心地よいだけじゃない、
それすらひっくるめて、ただある「世界」を、
すべてとしての「自分」を、
それそのものとしての「いのち」を、
直に、ほんとうの意味で正しく、
真摯に生きていくこと――
それは、本来、誰にだって可能なことです。
だって、そういう風にできているのだから。
でも、それをやっていくのがなかなか難しいと感じられるのなら、
まずは、「あったかくて、なつかしくて、ひろがっていく」感覚を、
おへその下に、実際に「置く」ことからやってみましょうか。
次第に、それをエクササイズとしてやらなくても、
常にそれとともにある感覚を味わうことが
できるようになっていくと思います。
ほんとうの「平和」は、もう、
そこにしかないんじゃないかな。
良い一日を。
良い人生を。