「足るを知る」の意味

2016年1月27日

なににおいても、

 

「見ないフリ」「聴こえないフリ」「感じないフリ」は

 

良い結果を生み出さないんじゃないかなあ……と思うのです。

 

 

 

たとえば、「足るを知る」っていうことばがありますよね?

 

最近流行りの「ミニマムに暮らそう!」系の情報

 

(ええ、私も大好きです。めちゃめちゃチェックしています……)

 

に触れていると、必ずと言っていいほど引用されています。

 

 

 

でも……どうなんでしょう。

 

このことばって、割とヤセ我慢と結びつきやすいというか、

 

そっちの方向でとらえられていることが、

 

実はめちゃめちゃ多いような気がするんです。

 

 

 

「すでに持っているもので満足しよう!」っていう気持ちを

 

悪いものだと言いたいわけじゃないんです。

 

 

 

でも……

 

ちょっと待って。

 

あなた、ほんとうに、それで満足できているの?

 

 

 

……っていうところが、

 

実は、結構、

 

「見ないフリ」「聴こえないフリ」「感じないフリ」を

 

されちゃっているんじゃないかなあ、って。

 

 

 

かと言って、もちろん、のべつまくなしに、

 

「欲望」ってものを肯定しているわけじゃないんです。

 

 

 

ニュアンスが難しいのですが……

 

 

 

なんだろな、

 

「足るを知る」っていうのは、ほんとうのところ、

 

「すでに持っている」とか、そういう「所有」の概念を

 

遥かに超えたところにある境地を

 

示すことばだと思うのですよね。

 

持っている/持っていない

 

的な、二項対立の世界を、

 

もっともっと大きな視点からとらえたときに、

 

ある感懐を伴って、

 

おのずから口からこぼれ落ちることば、というか……。

 

 

 

要は、そこにヤセ我慢が……

 

もっと正確に言えば、抵抗があるかどうか。

 

これは大事なポイントだと思います。

 

 

 

ほんとうの意味での「足るを知る」って、

 

あえて口に出すまでもなく、

 

おのずからその状態が整っているようなものだと思うんです。

 

 

 

そこに抵抗は一切なく、

 

あるがままを、あるがままに、

 

ただただ、そのままに、受けいれている状態。

 

 

 

「足るを知る」っていうことばを、

 

あえて口に出さなきゃいけない状況って、

 

もっと言えばスローガンみたいにしちゃっている状況って、

 

実はものすごく不自然だし、

 

そこになんらかのヤセ我慢がある証拠だと思うんです。

 

 

 

自分の中の小さな抵抗に対して、

 

「見ないフリ」「聴こえないフリ」「感じないフリ」

 

……しちゃってること、ないですか?

 

 

 

ほんとうの意味での「足るを知る」っていうのは、

 

自分の中にあるさまざまな「欲望」すらひっくるめて、

 

いまここにあるすべてを、

 

「ああ、これでいいんだなあ……」

 

「すべて、このままでいいんだなあ……」

 

と、両腕広げて抱きとめてあげられたときに、

 

ようやく、その意味が知られる、というか、

 

その意味に包まれる、というか、

 

なんというのかな……

 

そういう、おおらかで、やさしくて、

 

果てしなくあたたかいものだと思うんです。

 

ちっぽけなヤセ我慢なんか、

 

その果てしなさの前に、簡単に解け去ってしまいます。

 

 

 

「見ないフリ」「聴こえないフリ」「感じないフリ」

 

をやめて、

 

いまここにあるものすべてを、

 

「見て」「聴いて」「感じて」……

 

ぜんぶぜんぶぜんぶ「味わって」……

 

それをちゃんとできたときに、はじめて、

 

二項対立を超えたところにある、

 

真の「満足」を知ることになるんじゃないかな、って。

 

 

 

なんとなく、そんなことを思いました。

 

 

 

「見て」「聴いて」「感じて」「味わって」……

 

そうして生きた方が、単純に、楽しいよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は、ほんの少し、寒さがゆるむみたいです。

 

よい一日をお過ごしください◎