「考えることをやめるためにはどうしたらいいですか?」
と聞かれたら、
「考えることをやめることは決してできない、
という事実を、まずは認められたらいいですよね」
と答えます。
考えることをやめることができる、
という考えの前提には、
「考える」の主体は“この「私」”である!
……という考えが横たわっていることに気づけますか?
“この「私」”のあたまが、もっと言えば脳が、
あれやこれやを考えて、考えなくていいことまで考えて、
それによって自分自身を混乱させている、
そこに苦しみの元凶がある!
……と思っていませんか?
でも、実はそれはまったく事実ではないのだとしたら?
ほんとうのところ、
すべては縁によって、ただただ浮かんでは消えていくだけ。
それは「思考」だってそうです。
自分が「考える」ということをしたから、
なんらかの「思考」が浮かんだ、
わけではなくて、
自分が意思を持って、
なにかを「考え」ても、あるいは「考え」なくても、
ほんとうのところ、
それらはすべて、ごくごく勝手に浮かんでは消えていくものなんです。
「思考」だけじゃありません。
「感情」だってそう。「体感」だってそうです。
“この「私」”に属するもの、ぜんぶそうなんです。
“この「私」”が、意思をもってなにかをしたから、
結果として、
この「思考」が、この「感情」が、この「体感」が生まれました!
……なんてことは、
ほんとうのところ、ひとつも言えないんですね。
「そんなのヤダ! 翻弄されているだけじゃん!」
という反感が浮かぶのだとしたら、
それはまだ、視点が“この「私」”に固定されているからです。
ほんとうは、“この「私」”なんかいなくて、
ここにあるのは、
“この「私」”の「思考」や「感情」や「体感」をもひっくるめたすべてに
ただただ気づいている、
その気づきの主体としての、
「ほんとうのわたし」だけなのだとしたら――?
“この「私」”は、
「思考」「感情」「体感」その他すべてをあやつる
絶対的な主体などではなく、
“すべてとしての「ほんとうのわたし」”の
気づきの客体でしかないのだとしたら――?
そこには、反感も抵抗も生じようがなく、
ただただ圧倒的な受容だけがある――
人間という存在の最大の可能性は、
“この「私」”の肉体を持ちながら、
「ほんとうのわたし」として生きることだってできる
(気づきの主体をシフトさせたままに生きることもできる)
……というところにあるのだと思っています。
そして、その可能性は、ひとりひとりに、もれなく与えられている。
「それ」でない存在など、ほんとうはどこにもないのだから。
東京の雪はあっという間に溶けてしまいました。
次にあの真っ白な景色に会えるのは、いつになるかな。
よい一日を◎