気づきの主体はどこにある?

2016年1月19日

「考えることをやめるためにはどうしたらいいですか?」

 

と聞かれたら、

 

「考えることをやめることは決してできない、

 

という事実を、まずは認められたらいいですよね」

 

と答えます。

 

 

 

考えることをやめることができる、

 

という考えの前提には、

 

「考える」の主体は“この「私」”である!

 

……という考えが横たわっていることに気づけますか?

 

 

 

“この「私」”のあたまが、もっと言えば脳が、

 

あれやこれやを考えて、考えなくていいことまで考えて、

 

それによって自分自身を混乱させている、

 

そこに苦しみの元凶がある!

 

……と思っていませんか?

 

 

 

でも、実はそれはまったく事実ではないのだとしたら?

 

 

 

ほんとうのところ、

 

すべては縁によって、ただただ浮かんでは消えていくだけ。

 

それは「思考」だってそうです。

 

 

 

自分が「考える」ということをしたから、

 

なんらかの「思考」が浮かんだ、

 

わけではなくて、

 

自分が意思を持って、

 

なにかを「考え」ても、あるいは「考え」なくても、

 

ほんとうのところ、

 

それらはすべて、ごくごく勝手に浮かんでは消えていくものなんです。

 

 

 

「思考」だけじゃありません。

 

「感情」だってそう。「体感」だってそうです。

 

“この「私」”に属するもの、ぜんぶそうなんです。

 

 

 

“この「私」”が、意思をもってなにかをしたから、

 

結果として、

 

この「思考」が、この「感情」が、この「体感」が生まれました!

 

……なんてことは、

 

ほんとうのところ、ひとつも言えないんですね。

 

 

 

「そんなのヤダ! 翻弄されているだけじゃん!」

 

という反感が浮かぶのだとしたら、

 

それはまだ、視点が“この「私」”に固定されているからです。

 

 

 

ほんとうは、“この「私」”なんかいなくて、

 

ここにあるのは、

 

“この「私」”の「思考」や「感情」や「体感」をもひっくるめたすべてに

 

ただただ気づいている、

 

その気づきの主体としての、

 

「ほんとうのわたし」だけなのだとしたら――?

 

 

 

“この「私」”は、

 

「思考」「感情」「体感」その他すべてをあやつる

 

絶対的な主体などではなく、

 

“すべてとしての「ほんとうのわたし」”の

 

気づきの客体でしかないのだとしたら――?

 

 

 

そこには、反感も抵抗も生じようがなく、

 

ただただ圧倒的な受容だけがある――

 

 

 

人間という存在の最大の可能性は、

 

“この「私」”の肉体を持ちながら、

 

「ほんとうのわたし」として生きることだってできる

 

(気づきの主体をシフトさせたままに生きることもできる)

 

……というところにあるのだと思っています。

 

 

 

そして、その可能性は、ひとりひとりに、もれなく与えられている。

 

「それ」でない存在など、ほんとうはどこにもないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京の雪はあっという間に溶けてしまいました。

 

次にあの真っ白な景色に会えるのは、いつになるかな。

 

 

 

よい一日を◎