スクリーン自体が、スクリーン自体として……

2016年1月17日

「すべては、ただ、起きているだけ」

 

その真実をあらわすときに、よく、

 

映画のスクリーンのたとえが使われますよね?

 

 

 

スクリーン上で、どんなに血なまぐさい

 

凄惨な光景が繰り広げられていても、

 

どんなに胸がしめつけられるような

 

切ないストーリーが映し出されていたとしても、

 

逆に、どんなに歓喜にあふれた

 

「愛」に満ちた映像が踊っていても、

 

スクリーン自体には、なんの影響もない。

 

破れもしないし、濡れもしないし、減りもしない。

 

清らかになりもしないし、燃えもしないし、増えもしない。

 

なんの影響も受けず、それは、ただ、“ある”だけ。

 

 

 

そして、その、般若心経で言うところの、

 

「不生不滅」「不垢不清」「不増不減」である

 

スクリーンそれ自体が、

 

真実、まぎれもなく、

 

「ほんとうのわたし」であるのだ、と。

 

 

 

すごくわかりやすい、というか、

 

イメージしやすいお話ですよね。

 

私もこのたとえは大好きです。

 

 

 

しかし、このたとえにもひとつ大きな問題があって。

 

それは、

 

「スクリーン」と「観客」との間に距離がある、

 

っていうことなんです。

 

 

 

どうしても、ふつうにイメージすると、

 

「ほんとうのわたし」としてのスクリーンを見つめる“この「私」”

 

っていうのが出てきてしまいますよね?

 

「ほんとうのわたし」と、“この「私」”との間に距離がある。

 

 

 

でも、これは違うんですね。

 

ほんとうは、

 

スクリーンを見つめる“この「私」”すらひっくるめて、

 

「ほんとうのわたし」なんです。

 

 

 

……なんだかすでにことばの限界を

 

軽~く突破しているような気がしますが、

 

まあ、いいや。無理やり続けます。

 

 

 

だから、まあ、

 

このたとえにこだわるのならば、

 

スクリーン自体に目(のようなもの)がついていて、

 

それが、スクリーン上で起きていることを、

 

ただ、見つめている……

 

っていうことになるんです。

 

 

 

スクリーン自体が、スクリーン自体として、

 

スクリーン上で起きていることを、

 

ただ見つめている。

 

見つめているだけじゃなくて、

 

聴いていたり、嗅いでいたり、

 

味わっていたり、感じていたり……。

 

それらすべてを、

 

スクリーン自体が、スクリーン自体としてやっている……。

 

ただし、「不生不滅」「不垢不清」「不増不減」であることには

 

一切、変わりはなく……。

 

 

 

……こんな感じかな。

 

ふふふ。見事にことばが破たんしましたねえ。笑

 

でも、こうあらわすほかないところのお話なんですね。

 

 

 

さんざんたとえ話をしておきながらなんですが、

 

まあ、これは、あたまでごちゃごちゃと考えるより、

 

もう実際に、「すべてとして“ある”」という感覚を

 

味わってしまった方が早いようなお話かもしれません。

 

 

 

見るということ、

 

聴くということ、

 

嗅ぐということ、

 

味わうということ、

 

感じるということ……

 

このすべて、「いつ」「どこ」で起こっていますか?

 

そして、その経験同士に距離はありますか?

 

「私」と「世界」との間に距離はありますか?

 

 

 

「ただ、起きている」ことに、

 

真実、寄り添ってみたときに……

 

そこに、ただ、すべてとして“ある”

 

「ほんとうのわたし」に出会えるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は全国的に大荒れの天気と聞いています。

 

どうか、ご自愛くださいね。

 

 

 

よい日曜日を◎