仏もさとりも「いまここ自分」

2016年1月16日

私がづねづね問題に思っているのは、

 

「仏」とか、「さとり」とか、

 

ことばが大げさすぎるんだよな~、

 

っていうことです。

 

 

 

いや、決してそのことば自体がおおげさなわけじゃないんです。

 

ただ、そのことばを受け取る私たちの方で、

 

ごくごく勝手に、それらに、「だいそれたもの」というイメージを

 

くっつけてしまうんですね……。

 

 

 

たとえば、まあ、

 

「私もあなたも仏です」

 

「ほんとうはみんなさとっています」

 

なんてことを言うと、

 

思いっきり変な目で見られますよね?(笑)

 

 

 

いや、ふだん「仏」とか「神」とか「さとり」とか、

 

そういった類いの宗教的な言語に触れていない人が

 

それを聞いて「この人、大丈夫!?」って心配になってしまうのは、

 

まあ、無理からぬ話かな……とも思うのですが、

 

しかし、

 

一般的に見れば、完全に宗教的な職業の方ですら、

 

「人間=仏、なんて不遜すぎる!!! 謝りなさい!!!」

 

「自分がさとっている、なんて、私は口が裂けても言えません!!!」

 

みたいな反応を返してくることが、

 

どうも、ものすご~く多いような気がしていて……。

 

 

 

実際、「私」だって、「あなた」だって、「仏」だって、

 

いまここに立ってみれば、

 

完全に同じことばなんですけれどね。

 

そして、「仏」として生きることが「さとり」であるのなら、

 

生きとし生けるもの、そのままで、みんなさとっている、

 

っていうことになるんですけれどね。

 

 

 

なんでこんなに「おおげさ」で「むずかしい」ことになってしまったのかなあ?

 

 

 

人間のごくごく勝手なイメージが、

 

「仏」や「さとり」という、

 

ほんとうは「いま ここ 自分」のお話であるべきはずのものを、

 

遠く離れたおとぎ話、

 

もっと言えばアンタッチャブルなものにしてしまった……。

 

 

 

そこに、私たちの「生きづらさ」の根本的な原因が

 

あるような気がしてならないのです。

 

 

 

ほんとうは、ぜんぶ、「いま ここ 自分」のお話なんです。

 

「いま ここ 自分」を離れたところに、

 

ほんとうの「救い」なんか、ありえないんです。

 

 

 

私もあなたも仏さま。

 

みんなみんな、さとっている。

 

……以上!

 

 

 

もう、それだけでいいじゃない(笑)

 

「それ以上」を求めるから、苦しくなっちゃうんじゃない?

 

 

 

……まあ、今日書いてきたようなことが、にわかには信じられなくても、

 

(当然ですよね。世間の「常識」とはあまりに違うお話なのだから)

 

なにかそこに自分のこころが反応するのなら、

 

「ほんとう」の予感が一ミリでもあるのなら、

 

まずは「そういうもんか」と素直に受け取ってみる。

 

そして、実際に「そういうもん」として、世界を眺め渡してみる。

 

「そういうもん」として、一歩を踏み出してみる。

 

そこから開けてくるものって、あるんじゃないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい土曜日を◎