私がづねづね問題に思っているのは、
「仏」とか、「さとり」とか、
ことばが大げさすぎるんだよな~、
っていうことです。
いや、決してそのことば自体がおおげさなわけじゃないんです。
ただ、そのことばを受け取る私たちの方で、
ごくごく勝手に、それらに、「だいそれたもの」というイメージを
くっつけてしまうんですね……。
たとえば、まあ、
「私もあなたも仏です」
「ほんとうはみんなさとっています」
なんてことを言うと、
思いっきり変な目で見られますよね?(笑)
いや、ふだん「仏」とか「神」とか「さとり」とか、
そういった類いの宗教的な言語に触れていない人が
それを聞いて「この人、大丈夫!?」って心配になってしまうのは、
まあ、無理からぬ話かな……とも思うのですが、
しかし、
一般的に見れば、完全に宗教的な職業の方ですら、
「人間=仏、なんて不遜すぎる!!! 謝りなさい!!!」
「自分がさとっている、なんて、私は口が裂けても言えません!!!」
みたいな反応を返してくることが、
どうも、ものすご~く多いような気がしていて……。
実際、「私」だって、「あなた」だって、「仏」だって、
いまここに立ってみれば、
完全に同じことばなんですけれどね。
そして、「仏」として生きることが「さとり」であるのなら、
生きとし生けるもの、そのままで、みんなさとっている、
っていうことになるんですけれどね。
なんでこんなに「おおげさ」で「むずかしい」ことになってしまったのかなあ?
人間のごくごく勝手なイメージが、
「仏」や「さとり」という、
ほんとうは「いま ここ 自分」のお話であるべきはずのものを、
遠く離れたおとぎ話、
もっと言えばアンタッチャブルなものにしてしまった……。
そこに、私たちの「生きづらさ」の根本的な原因が
あるような気がしてならないのです。
ほんとうは、ぜんぶ、「いま ここ 自分」のお話なんです。
「いま ここ 自分」を離れたところに、
ほんとうの「救い」なんか、ありえないんです。
私もあなたも仏さま。
みんなみんな、さとっている。
……以上!
もう、それだけでいいじゃない(笑)
「それ以上」を求めるから、苦しくなっちゃうんじゃない?
……まあ、今日書いてきたようなことが、にわかには信じられなくても、
(当然ですよね。世間の「常識」とはあまりに違うお話なのだから)
なにかそこに自分のこころが反応するのなら、
「ほんとう」の予感が一ミリでもあるのなら、
まずは「そういうもんか」と素直に受け取ってみる。
そして、実際に「そういうもん」として、世界を眺め渡してみる。
「そういうもん」として、一歩を踏み出してみる。
そこから開けてくるものって、あるんじゃないかな。
よい土曜日を◎