1月10日(日)から4日間連続で、
インタネット寺院・彼岸寺にて、
円覚寺の横田南嶺老師の
「さとり」についての対話型インタビューを掲載しました。
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横田南嶺さんインタビュー/夢と気づいて夢を生きること(全4回)
http://www.higan.net/satori/2016/01/yokota1.html
http://www.higan.net/satori/2016/01/yokota2.html
http://www.higan.net/satori/2016/01/yokota3.html
http://www.higan.net/satori/2016/01/yokota4.html
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横田老師のお話、ほんとうに素晴らしいですよ。
ぜひ、お読みくださいませ◎
さて。このインタビューについて、
夫が、こんな感想をツイッターでつぶやいてくれました。
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「すべては夢」とはよく言うけれど、私が夢から覚めるというより、
「私という夢」から覚めるっていう。
じゃあ何がその夢から覚めるのかと言われると言葉は尽きてしまうけども。
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私が夢から覚めるんじゃなくて、
私という夢から覚める……。
「“私”こそが夢だった!」
これは巨大な転換ですよね。
この転換が起こった瞬間、「世界」の意味は変わってしまいます。
でも、夫も言っていますけれど、
「じゃあ、いったい“何”が夢から覚めるの?」と聞かれたら、
そこはもう、沈黙するしかないところで……。
だって、それはそもそもことばを超えたところのお話なのだから。
いや、もちろん、ことばはあるんです。
それこそ、「神」とか、「仏」とか、「大いなる意志」とか、
あるいは、「LOVE」とか、「LIFE」とかね。
でも、それは、「ことばを超えたところのものに、
無理やりことばをあてがってみた結果、
どうにかこうにか生まれてきた“仮”のことば」
なのであり、そもそも、そういうものが、
実体として「ある」わけじゃない……。
いや、ほんとうに、わかりづらいお話ですよね。
「わっかんね~~~!」と叫びだしたくなっても当然です。
でも、「わからない」ことって、決してネガティブなことじゃない。
というか、むしろ、
「ことばを超えたところのお話」に対峙する際には、
「わからない」をもってするしかない、
というところがある。
あたまで考えても「わからない」ことに対しては、
もう、思い切って「降参」してしまうほかない。
「わからない」の海の中に身を投げて、
こころもからだも浸し切ってしまうほかない。
そこから「世界」が開けてくることって、あるんじゃないかな。
……というか、それ以外に「道」はない気がします。
「わからない」を、そのまま抱きしめたときに、
「私という夢」に、切れ目が生じる……
そのとき、はじめて、
「神」とか、「仏」とか、「大いなる意志」とか、
あるいは「LOVE」とか、「LIFE」とか、
そういった「ことば」の意味を、
“それそのものとして” 知ることになるでしょう。
暖冬とは言え、朝は冷え込みますね。
どうか、ご自愛くださいませ。
よい一日を◎