“そうなっている”から、そうするんです。

2016年1月9日

実は私、いま、また、あたらしいことを始めようとしておりまして、

 

その準備のために、この春から、

 

がらっと生活を変えることになりそうなんですね。

 

なりそう、というか、そうする。

 

私自身、それをやりたいし、

 

なによりも、

 

“そうなっている”から、そうするんです。

 

 

 

……なんてことを書くと、

 

「え、あんた、いつも、

 

“すべてはこのままで完全に完璧です”

 

って言ってるじゃん。

 

それなのにまたあたらしいこと始めようとしてるの?

 

生活を変えようとしているの?

 

それって現状に不満があるってことなんじゃないの?

 

本当はなにも“完全完璧”と思っていないから、

 

動こうとしているんじゃないの?

 

小出遥子、矛盾してる!!!」

 

とかね、そういう風に思われてしまっても、

 

まあ、仕方ないのかな、とも思うのですが、

 

いやいや……

 

ぜんぜん、ぜ~~~んぜん、矛盾なんかしていないですよ。

 

 

 

だって、この、「なにかやりたい」「だからやります」「動きます」

 

っていう私の暑苦しい意志すら、

 

ご縁の一瞬の結節点として、

 

どうしようもなく、あらわれ出たものなのだから。

 

 

 

そして、ご縁っていうのは、

 

人間のあたまですべてを理解することなんか、

 

ぜ~~~ったいに不可能!!!

 

ってぐらい、

 

きっちり、みっちり、完全に、完璧に、編みこまれているものであって、

 

そこに人間の意思なんか、ほんとうのところ、

 

一ミリだって介入できないんですね。

 

 

 

つまり、

 

人間ひとりひとりの

 

「やりたい」「やります」「動きます」すら、

 

ぜんぶまるごとひっくるめて、

 

すべては完全、完璧に、「起こっている」っていうことなんです。

 

 

 

そもそも、「自分」という存在だって、

 

ご縁の網目のほんの一瞬の結節点にすぎないんです。

 

前提がそれなのだから、

 

そこを舞台として浮かび上がってくる

 

「思考」や「感情」や「体感」だって、

 

すべて、自分の意志とはまったく関係なく、

 

ぽっと浮かび上がっては消えていく、

 

はかない存在なんだ、っていうことは、

 

当たり前と言えば当たり前っていうお話なんですよね。

 

 

 

はかないからこそ、人生はおもしろい。

 

……っていう言い方もできますが。

 

 

 

まあ、まとめてしまえば、

 

「私が動いても、すべては完全に完璧」

 

「私が動かなくても、すべては完全に完璧」

 

動く、動かない、すら、

 

すべて、ただただ、「縁によって」、

 

どうしようもなく、起こってきているものなのだから。

 

そして、「縁」が間違うことは、ぜったいにないのだから。

 

っていうことになりますかね。

 

 

 

ほんとうに、すべては縁によって、

 

動いたり、動かなかったり、しているのだと思う。

 

ものすごくシンプル。

 

そのシンプルさに乗ってみると、

 

どうも、この「小出遥子」というあらわれにおいては、

 

いまはとにかく行動すべきときなんだ、っていうのが、

 

おのずと、理解されてくるんですね。

 

だから、動く。

 

“そうなっている”から、そうするんです。

 

それだけ。

 

シンプル。

 

シンプルって、楽だなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただただ、そのままに、運ばれていこう。

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎