「考える」の効用

2016年1月5日

昨日の記事では、

 

「考える」を止めて、「感じる」の世界に移行するためには……

 

みたいな書き方をしてしまったので、

 

なんというか、いかにも、

 

「考える」のは悪! 「感じる」は善!

 

といったような印象を与えてしまったかもしれないのですが、

 

いやいや、ぜんぜん、そういうことじゃないんですね。

 

 

 

「考える」にも、ちゃんと役割はある。

 

 

 

ただ、「考える」ばっかりで、「感じる」をないがしろにすると、

 

こころやからだが置いてけぼりにされて、

 

結果として、

 

「なんだか、生きていくのがつらい、苦しい」っていうことになってしまうよね、

 

ということを言いたかっただけなのです。

 

それだけであって、決して「考える」を敵視しているわけじゃない。

 

むしろ、最近では、

 

「考える」っていいやつじゃん! 結構やるじゃん!

 

みたいな風に思うことも多くあります。

 

 

 

ということで、今日は、「考える」の名誉挽回? 汚名返上?

 

その役割について書いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

「考える」というと、どうしても、こう、

 

座学的な知識、お勉強、というお堅いイメージが浮かんでくると思うのですが、

 

でも、これ、決して役立たないものじゃないですよね。

 

 

 

とくに私みたいに、実際にからだを動かすよりは、

 

あたまの中であれこれ考えている方が得意、というタイプには、

 

知識がもたらす安心感は、とてつもなく大きなものとして感じられる。

 

安心感が与えられると、今度は一歩踏み出す勇気が出てくる。

 

ここにこそ、「考える」の役割はあるんじゃないかな、と思うのです。

 

 

 

「考える」優位で生きてきちゃった人って、とっても怖がりなんですよね。

 

怖がりだからこそ、「考える」優位になっちゃったのかもしれない。

 

どちらが先かはわからないけれど、

 

とにかく、そういうタイプの人は、

 

実際に一歩踏み出して開けてくる世界を味わう、

 

ということに対して、強烈な抵抗感を持ってしまっている。

 

その抵抗は、じゃあ、誰がやっているのか、っていうと、

 

結局、「自分」という幻想、ということになるのですが……。

 

「自分」という幻想を守りたいがために、

 

あれこれ「考える」ばかりで、

 

実際にそれを「感じる」ことを避けてしまうんですね。

 

「感じ」た瞬間に、自分が「自分」だと思っていたものが、

 

いやおうなしに変容をはじめてしまうから。

 

それが怖いんです。

 

 

 

でも、怖がっていようがいまいが、

 

「機会」っていうのは、誰にでも、平等に与えられているので。

 

だから、たとえば、あるとき、

 

「自分」なんてどこにもいないよ! ぜんぶ幻想だよ!

 

という知識(いや、これは真実であり、決して「知識」なんかじゃないのですが)

 

と出会ったとします。

 

それで、そのことばの意味はよくわからなくても、

 

どういうわけか、こころに強く残るものがあったとします。

 

そのこころの動きに引っ張られるようにして、

 

そういったことを伝えてくれる人の話を聞きに行ったり、

 

ありとあらゆるスピリチュアルな智慧について書かれた本を読んでみたり、

 

いろいろするとします。

 

「知識」をとにかくかき集めるわけです。

 

これは「考える」優位の人の特徴的な行動ですね(笑)

 

そうこうしているうちに、

 

やっぱり「“自分”はいない」「ぜんぶ幻想」という考え方は、

 

ほんとうのことであるらしい……

 

だって、あの人も、この人も、あの本も、この本も、

 

みんな同じこと言ってるし……

 

ということがわかってきます。

 

 

 

「考える」優位の人たちは、ここでようやく安心して、ほんの少しゆるむんです。

 

で、ゆるんだところから「感じる」がはじまって、

 

少しずつ、「自分」と「世界」に変容が起こってくる、という流れです。

 

 

 

最初から「感じる」ができれば苦労はしないけれど、

 

それができないから、

 

「考える」を逆手にとって、「知識」を一生懸命集めて、

 

そこからもたらされる安心感の中で、

 

ようやく、一歩を踏み出す=「自分」をゆるめる勇気を持つことができる……。

 

 

 

だから、「考える」にだって、ちゃんと役割はあるんです。

 

 

 

でも、当然ですが、「考える」に閉じちゃったら本末転倒で。

 

「考える」は、あくまで、「開く」ための手段のひとつ。

 

それを忘れて、「自分」を守る、「自分」に閉じこもるためだけに、

 

周囲に知識の牙城を築き上げるようなことをしてしまったら、

 

結局、「つらい」「苦しい」からは抜け出せなくなってしまうんですね。

 

というか、前よりもっと「つらい」「苦しい」の度合いは上がってしまう。

 

 

 

 

 

「考える」は諸刃の剣のようなものですね……。

 

使い方次第で、便利な道具にもなるし、人を傷つける道具にもなってしまう。

 

 

 

でも、“「自分」を開く”という方向性で使っていく、ということさえ忘れなければ、

 

「考える」は、探究における、とっても心強いパートナーになってくれます。

 

 

 

「考える」を、味方につけるか、敵にしてしまうか。

 

ぜんぶ自分次第なんだと思う。

 

 

 

 

 

方向性って、ほんとうに、大事ですね。

 

「考える」を上手に味方につけて、

 

仲良く、楽しく、道を歩んでいけるといいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日もあったかくなるのかな。

 

みなさまも、よい一日を◎