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わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
宮沢賢治 『春と修羅』序文 より抜粋
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なにか特定の「人」「もの」「こと」と、自分との関係性を指して、
「ご縁があった」とか「なかった」とか言ったりしますし、
私もよく言ったりしますけれど、
これ、実は、ぜんぜん正確な表現ではないのですよね。
だって、ほんとうは、「縁」でないものなんてないから。
ほんとうのほんとうのほんとうに、
すべては縁、なのであって……
「ご縁がなかった」ことすら、
そういうかたちでの縁なのであって……
この世界に、縁でないもの、なし。
これは真実です。
でも、そこに「自分」という名の固定化された視点を持ち込むと、
一気に「あり」「なし」の世界が展開してしまうのですね。
だけど、そもそも、
「確固たる存在としての自分」それ自体が、
無数の縁の戯れの、ほんの一瞬の結節点、
つまりは、
実体のない「幽霊」でしかないのだとしたら――?
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
縁そのものとしての「ほんとうの自分」にくつろいだときに、
立ちあらわれてくる“世界”と、
ただ、ともにあろう。
よい一日を。