あらゆる透明な幽霊の複合体

2015年12月28日

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わたくしといふ現象は

 

仮定された有機交流電燈の

 

ひとつの青い照明です

 

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

 

風景やみんなといつしよに

 

せはしくせはしく明滅しながら

 

いかにもたしかにともりつづける

 

因果交流電燈の

 

ひとつの青い照明です

 

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

 

 

宮沢賢治 『春と修羅』序文 より抜粋

 

 

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なにか特定の「人」「もの」「こと」と、自分との関係性を指して、

 

「ご縁があった」とか「なかった」とか言ったりしますし、

 

私もよく言ったりしますけれど、

 

これ、実は、ぜんぜん正確な表現ではないのですよね。

 

 

 

だって、ほんとうは、「縁」でないものなんてないから。

 

 

 

ほんとうのほんとうのほんとうに、

 

すべては縁、なのであって……

 

「ご縁がなかった」ことすら、

 

そういうかたちでの縁なのであって……

 

 

 

この世界に、縁でないもの、なし。

 

これは真実です。

 

 

 

でも、そこに「自分」という名の固定化された視点を持ち込むと、

 

一気に「あり」「なし」の世界が展開してしまうのですね。

 

 

 

だけど、そもそも、

 

「確固たる存在としての自分」それ自体が、

 

無数の縁の戯れの、ほんの一瞬の結節点、

 

つまりは、

 

実体のない「幽霊」でしかないのだとしたら――?

 

 

 

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

 

 

 

縁そのものとしての「ほんとうの自分」にくつろいだときに、

 

立ちあらわれてくる“世界”と、

 

ただ、ともにあろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日を。