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少年は自分の国の古いことわざを思い出した。
それは、夜明けの直前に、最も暗い時間がくる、というものだった。
(『アルケミスト 夢を旅した少年』パウロ・コエーリョ=著 山川紘矢+山川亜希子=訳 角川文庫 より抜粋)
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今日は冬至ですねえ。
私、昔から、冬至って好きなんですよね。
「冬来たりなば春遠からじ」というか、
「陰極まりて陽に転ず」の象徴みたいな日ですからね。
もう、ここには、希望しかない。
ほのぼのと、明るい気分しかないです。
冬来たりなば……と言えば、
すべての葉を落としてしまって、
すっかりまるはだかとなった木々を眺めるのも好きです。
むき出しとなった枝の先には、むしろ、
無数の花々の気配を、直に感じ取れるような気がするから。
でも、ここで言いたいのは、
「どん底まで落ちたら、あとは上るだけだもんね~」というような、
自棄っぱちオプティミスト(強気のペシミスト?)的な気分のことじゃなくて……
いや、もちろんそれもありますが……
なんというのかな……
「枯れ枝は枯れ枝で、とてつもなくうつくしい」
「なぜなら、そこに“すべて”が内包されているから」
というか……
どうしても陳腐な表現になってしまうんですけれど……。
私たちは、冬の枯れ枝を見ても、
そこに、枯れ枝「だけ」を見ているわけじゃないんですよね。
枯れ枝の姿を通して、
まだ見ぬ、もしくは過ぎ去りしいつかの、
花の季節、青葉の季節、紅葉の季節……をも、
また、同時に、確実に、見ている。
これって、地味にすごいことだと思いませんか?
私たち、冬の只中にいながらにして、
いまここで、すべての季節を、同時に「見る」ことができるんですよ?
これ、そのまま、
季節の流れの中に、固定化された「冬」があるわけじゃなくて、
「冬」の中に、「春」も、「夏」も、「秋」も、
すべて、確実に、存在している!
……っていうことの、動かぬ証拠になると思いませんか?
過去から未来へと伸びた不可逆の直線の上に
いまという狭苦しい一点があるのではなくて、
「いま」という無限の広がりの中に
「過去」や「未来」がのびのびと存在している――
「ひとつ」の中に、あらゆる「すべて」がある――
すべては、「いまここ」にある――
こんなに豊かなことって、あるかな?
目を閉じて、「いまここ」という豊かさを、
じっくり感じて、味わってみてください。
次に目を開いたときには、「世界」の見え方が、変わっているかもよ?
どうか、よき日を。
よき世界を。