「自分」“をもひっくるめて”そうである、ということ。

2015年12月21日

昨日、

 

なにかに対する自分の反応や、それに基づく行動すら、

 

すべて、「ただ、起こっている」こと……

 

といったような内容の記事を書きましたが、

 

http://koideyoko.com/archives/7677

 

 

 

この記事の中に登場する、

 

「え、じゃあ、アンタはなにも行動しないんかい!?」

 

「悲惨な状況を前にしても、ただ傍観しているだけなんかい!?」

 

っていう「勘違い」の発生源を探っていくと、

 

ぜんぶ、

 

「“すべて”の中から、“自分”だけをはみ出させた上で、

 

物事を見たり聞いたり考えたりしてしまっている」

 

という事実に行き当たるんですね。

 

 

 

でも、これ、「ほんとうのこと」に対する態度としては、

 

不適格のハンコをぽんっと押させてもらわざるを得なくて……。

 

 

 

 

 

たとえば、「諸行無常」っていうことばがありますよね?

 

これ、中高の古典の授業なんかでも頻発するワードですし、

 

まったく仏教に詳しくない方でも、

 

「諸行無常? あらゆる事象は流れ去る、っていう意味でしょ?」

 

と、割とさらっと口に出されたりするのですが、

 

でも、その「あらゆる」って、

 

ほんとうのほんとうに「あらゆる」だからね!?

 

っていうところは、

 

実際、ほとんど認識されてはいないんじゃないかなあ、と。

 

 

 

具体的に言えば、

 

「諸行無常」と口に出している「自分」だって、

 

「諸行」のうちのひとつなんだぜ?

 

つまり、

 

「自分」だって、思いっきり「無常」なんだぜ!?

 

っていうところですよね。

 

ここ、ほんとうに、ちゃんと向き合えている???

 

 

 

 

 

「“自分”だけは特別だ」

 

なんて、まあもちろん、私たちみんな、

 

そんな風に言語化して考えているわけじゃないでしょうけれど、

 

でも、やっていることは、結果としてそうなっているんですよね。

 

私たちは、いつだって、「自分」だけを特別扱いしてしまっている。

 

 

 

 

 

でも……

 

 

 

「自分」“さえ”そうである。

 

「自分」“すら”そうである。

 

「自分」“だって”そうである。

 

「自分」“をもひっくるめて”そうである。

 

 

 

ここにこそ、「自分」の向き合うべきポイントはあるし、

 

ここにしか、「転換」のポイントは存在しない。

 

 

 

このことは、肝に銘じておいた方がいいんじゃないかなあ。

 

 

 

 

 

「自分」“さえ”そうである。

 

「自分」“すら”そうである。

 

「自分」“だって”そうである。

 

「自分」“をもひっくるめて”そうである。

 

 

 

これを、ほんとうのほんとうのほんとうに理解することができたら……

 

「世界」の意味が、変わってしまいます。

 

だって、そのときには、すでに、

 

「世界」を認識する主体としての「自分」の意味すら、

 

すっかり変わってしまっているのだから。

 

 

 

 

 

「自分」には、ヒントが満ち溢れています。

 

というか、「自分」こそが、ヒントそのもの、ですね。

 

 

 

ほんとうに、いつだって、向き合うべきは、

 

「自分」

 

なのだと思います。

 

 

 

「自分」と向き合うのは、

 

一瞬こわいような気もするけれど、

 

でも、その恐怖感すら、

 

「自分」の見せた “まぼろし” かもしれないよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月曜日。

 

こころもからだもできるだけあったかくして、

 

なるべく機嫌良く生きていきましょう。

 

 

 

よい一日を◎