こういうブログを書いていると、ときたま、
「とっても素敵な世界ですね。
私には“体験”がないから、まだよくわかりませんが。」
といったようなご感想をいただくことがあるのですが……。
うーん……。
「体験」かあ……。
今日はこの「体験」について、ちょっと思うことを書いてみようと思います。
「さとった」人のエピソードとして、
なにか象徴的な「体験」が語られることって、割と一般的だったりしますよね。
たとえば、お釈迦さまの場合、
菩提樹の下で瞑想をしていて、一週間後、
明けの明星(金星)が東の空に輝いているのを見た瞬間に、
万物と一体となったのでありました……とか。
弘法大師の場合、
洞窟にこもって修行をしていて、
その修行を無事終えた直後に、金星が口の中に飛び込んできて、
(どんなだ……! ていうかまた金星か……!)
万物と一体となったのでありました……とか。
だから、なにか、こう、
きっと、この世には、
万物と一体となるような、
「絶対的な体験」というものが存在していて、
お釈迦さまや空海さんのような「選ばれし者」には、
それがあるときふいに「なんの前触れもなく」やってきて、
その瞬間に「すべて」をさとっちゃって、
で、その人のその後の人生は、
「完全」に、「完璧」に、「まるっきり」変わってきちゃうのだ!!!
……っていうようなイメージって、
やっぱり、どうしても、あると思うんですね。
でも、どうなんだろう。
そういうのって、フィクションに過ぎないんじゃないかな?
というか、「体験」って、実は、そこまで
決定的に重要なものというわけでは、ないんじゃないかな?
……っていうのが、最近の私の考えです。
と言うのも、
このブログに書いたこともあるけれど、
平々凡々と暮らしているこの私にも、「体験」はあるんですよ。
「“私”はいない」「すべては“わたし”」を、
理屈を超えたところから理解する、というか、せざるを得ない……
それほどまでに強烈な一撃を、
我が身(っていうのも違うんだけど)に浴びたことが、間違いなく、ある。
あれは、「神秘体験」「宗教体験」といったようなことばで表現されるものと、
まったく同質のものだったと思います。
その「体験」は、確かに、私にとってとても大事なもので、
「体験」以前と以後では、多かれ少なかれ、
人生の質が変わってしまった、っていうのは
まぎれもない事実なのですが……
でも……
少なくとも私、小出遥子というあらわれにおいては、
そういった「体験」があったからと言って、
「パンパカパ~ン!」
「私、すべてがわかっちゃいました~!」
「人格も人生も、まるっきり変わっちゃいました~!」
みたいなことは、ざんねんながら、起きてきませんでした……。
もちろん、すべての大元のカラクリみたいなものは、
その瞬間に直感的に理解できたのですが、
それでも、それを人に説明できるほどにことばが熟すまでには、
まだまだ時間が必要で、
というか、それに関してはいまも絶賛修行中で、
(この毎日のブログ更新はそのトレーニングみたいなものなのです)
そして、その「理解」を、日常レベルに落とし込んで、
それをたたずまいに具現化させていくのにも、
まだまだまだまだ修行は必要そうだなあ……と。
というか、修行自体に、決して終わりはないのだろうなあ……と。
そんなことを思っています。
だから、
「体験」があろうがなかろうが、
「修行」っていうのは絶対に必要だし、
そして、その「修行」自体の質に、
「体験」の有無なんか、
一切、ほんとうに「一切」!!!
関係してくるものではないのだなあ……と。
「体験」があろうがなかろうが、
「修行」としてやることは、まったく変わらない、っていうことです。
あ、もちろん、「修行」といっても、
滝に打たれたりとか、火の上を歩いたりとか、
そういうことをしなきゃいけないわけじゃないですよ!
(やりたい人はじゃんじゃんやればいいと思いますが。)
なんというのかな、
ただただ「“いまここ”にある」、「“いまここ”にくつろぐ」。
それが、「修行」の中身なんですね。
それを毎瞬、選んでいる、やっている、という意識もなく、
ただただ、いまここで、繰り返すんです。
もちろん、そうは言っても、「体験」はとても大事なものではあると思います。
少なくとも、私には、あの体験が、その後の人生を支える、
大きな大きなヒントになってくれました。
でも、言ってみれば、「体験」は、「ヒント」でしかない。
その「ヒント」を頼りに、ふたたび「道」を歩んでいかなきゃいけないんです。
もちろん、「ヒント」は、ないよりはある方がやりやすいでしょう。
でも、「ヒント」はあくまで「ヒント」であって、
決して「答え」そのものではない。
そこをはき違えてしまうと、「道」を歩んでいく足が
止まってしまいかねないんじゃないかなあ、って。
これって、むしろ危険なことなんじゃないかなあ、って。
自らを省みて、そんな風に思うのですよね……。
「答え」そのものではない、しかもいつ何時訪れるかもわからない、
そんなあてにならない「体験」をじっとじっと待ちわびるぐらいなら……
いまここで、“いまここ”を、
思いっきり感じちゃった方がいいんじゃない?
いまここで、“いまここ”に、
思いっきりくつろいでしまった方がいいんじゃない?
「体験」があろうがなかろうが、それは可能なことなのだから。
そんなことを、じみじみ思う、最近の私なのでした。
修行は続くよ、どこまでも……