「宗教体験」について思うこと。

2015年12月16日

こういうブログを書いていると、ときたま、

 

「とっても素敵な世界ですね。

 

私には“体験”がないから、まだよくわかりませんが。」

 

といったようなご感想をいただくことがあるのですが……。

 

 

 

うーん……。

 

「体験」かあ……。

 

 

 

今日はこの「体験」について、ちょっと思うことを書いてみようと思います。

 

 

 

 

 

「さとった」人のエピソードとして、

 

なにか象徴的な「体験」が語られることって、割と一般的だったりしますよね。

 

 

 

たとえば、お釈迦さまの場合、

 

菩提樹の下で瞑想をしていて、一週間後、

 

明けの明星(金星)が東の空に輝いているのを見た瞬間に、

 

万物と一体となったのでありました……とか。

 

 

 

弘法大師の場合、

 

洞窟にこもって修行をしていて、

 

その修行を無事終えた直後に、金星が口の中に飛び込んできて、

 

(どんなだ……! ていうかまた金星か……!)

 

万物と一体となったのでありました……とか。

 

 

 

だから、なにか、こう、

 

きっと、この世には、

 

万物と一体となるような、

 

「絶対的な体験」というものが存在していて、

 

お釈迦さまや空海さんのような「選ばれし者」には、

 

それがあるときふいに「なんの前触れもなく」やってきて、

 

その瞬間に「すべて」をさとっちゃって、

 

で、その人のその後の人生は、

 

「完全」に、「完璧」に、「まるっきり」変わってきちゃうのだ!!!

 

……っていうようなイメージって、

 

やっぱり、どうしても、あると思うんですね。

 

 

 

 

 

でも、どうなんだろう。

 

そういうのって、フィクションに過ぎないんじゃないかな?

 

というか、「体験」って、実は、そこまで

 

決定的に重要なものというわけでは、ないんじゃないかな?

 

……っていうのが、最近の私の考えです。

 

 

 

 

 

と言うのも、

 

このブログに書いたこともあるけれど、

 

平々凡々と暮らしているこの私にも、「体験」はあるんですよ。

 

「“私”はいない」「すべては“わたし”」を、

 

理屈を超えたところから理解する、というか、せざるを得ない……

 

それほどまでに強烈な一撃を、

 

我が身(っていうのも違うんだけど)に浴びたことが、間違いなく、ある。

 

あれは、「神秘体験」「宗教体験」といったようなことばで表現されるものと、

 

まったく同質のものだったと思います。

 

 

 

その「体験」は、確かに、私にとってとても大事なもので、

 

「体験」以前と以後では、多かれ少なかれ、

 

人生の質が変わってしまった、っていうのは

 

まぎれもない事実なのですが……

 

 

 

 

 

でも……

 

少なくとも私、小出遥子というあらわれにおいては、

 

そういった「体験」があったからと言って、

 

「パンパカパ~ン!」

 

「私、すべてがわかっちゃいました~!」

 

「人格も人生も、まるっきり変わっちゃいました~!」

 

みたいなことは、ざんねんながら、起きてきませんでした……。

 

 

 

 

 

もちろん、すべての大元のカラクリみたいなものは、

 

その瞬間に直感的に理解できたのですが、

 

それでも、それを人に説明できるほどにことばが熟すまでには、

 

まだまだ時間が必要で、

 

というか、それに関してはいまも絶賛修行中で、

 

(この毎日のブログ更新はそのトレーニングみたいなものなのです)

 

そして、その「理解」を、日常レベルに落とし込んで、

 

それをたたずまいに具現化させていくのにも、

 

まだまだまだまだ修行は必要そうだなあ……と。

 

というか、修行自体に、決して終わりはないのだろうなあ……と。

 

そんなことを思っています。

 

 

 

 

 

だから、

 

「体験」があろうがなかろうが、

 

「修行」っていうのは絶対に必要だし、

 

そして、その「修行」自体の質に、

 

「体験」の有無なんか、

 

一切、ほんとうに「一切」!!!

 

関係してくるものではないのだなあ……と。

 

 

 

「体験」があろうがなかろうが、

 

「修行」としてやることは、まったく変わらない、っていうことです。

 

 

 

あ、もちろん、「修行」といっても、

 

滝に打たれたりとか、火の上を歩いたりとか、

 

そういうことをしなきゃいけないわけじゃないですよ!

 

(やりたい人はじゃんじゃんやればいいと思いますが。)

 

 

 

なんというのかな、

 

ただただ「“いまここ”にある」、「“いまここ”にくつろぐ」。

 

それが、「修行」の中身なんですね。

 

それを毎瞬、選んでいる、やっている、という意識もなく、

 

ただただ、いまここで、繰り返すんです。

 

 

 

 

 

もちろん、そうは言っても、「体験」はとても大事なものではあると思います。

 

少なくとも、私には、あの体験が、その後の人生を支える、

 

大きな大きなヒントになってくれました。

 

 

 

でも、言ってみれば、「体験」は、「ヒント」でしかない。

 

その「ヒント」を頼りに、ふたたび「道」を歩んでいかなきゃいけないんです。

 

 

 

 

 

もちろん、「ヒント」は、ないよりはある方がやりやすいでしょう。

 

でも、「ヒント」はあくまで「ヒント」であって、

 

決して「答え」そのものではない。

 

そこをはき違えてしまうと、「道」を歩んでいく足が

 

止まってしまいかねないんじゃないかなあ、って。

 

これって、むしろ危険なことなんじゃないかなあ、って。

 

自らを省みて、そんな風に思うのですよね……。

 

 

 

 

 

「答え」そのものではない、しかもいつ何時訪れるかもわからない、

 

そんなあてにならない「体験」をじっとじっと待ちわびるぐらいなら……

 

 

 

いまここで、“いまここ”を、

 

思いっきり感じちゃった方がいいんじゃない?

 

いまここで、“いまここ”に、

 

思いっきりくつろいでしまった方がいいんじゃない?

 

 

 

「体験」があろうがなかろうが、それは可能なことなのだから。

 

 

 

 

 

そんなことを、じみじみ思う、最近の私なのでした。

 

 

 

 

 

 

 

修行は続くよ、どこまでも……