昨日、このブログに、以下のようなことを書きました。
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“私”というフィクションを見破れば、
「私“の”人生」も、「あなた“の”人生」も、
「彼“の”人生」も、「彼女“の”人生」も、
みんなみんなみんなみんな、
壮大なるフィクションに過ぎなかったことに気づきます。
そこに残るは、所有格のない Life だけ。
所有格のない Life を包み込むのは、圧倒的な肯定感。
圧倒的な肯定感の中では、壮大なるフィクションすら愛おしいのです。
なぜなら、壮大なるフィクションすら、まぎれもなく、
壮大なる Love の、ひとつのあらわれであることが理解されるから。
ここまでくれば、もう、すっかり安心して、
「私“の”人生」に戻っていけますね。
「私“の”人生」という名のフィクションを、
まったく深刻じゃなく、だからこそ真剣に、
全力で楽しめるようになりますね。
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これ、まったくそうは見えないかもしれないけれど、
実は、禅の有名な説話と同じことを言っているんです。
以下のようなお話です。
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禅を学ぶ前には、山は山であり、川は川であった。
禅を学んでいくと、あるとき、山は山ではなくなり、川は川ではなくなった。
禅のこころを生きはじめたら、ふたたび、山は山となり、川は川となった。
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「ほんとう」の世界を知る前には、
「私の人生」は、まぎれもなく「私“の”人生」であり、
「誰かの人生」は、まぎれもなく「誰か“の”人生」であった。
「ほんとう」の世界を知った瞬間、
「私“の”人生」も「誰か“の”人生」も消え失せて、
所有格のない Life だけが残った。
「ほんとう」の世界を生きはじめたら、
ふたたび、「私の人生」や「誰かの人生」という設定が戻ってきた。
しかしながら、
今度は、絶対的な安心感の中で、
深刻でなく、でも真剣に、力を抜いて、でも全力で、
歌うように、踊るように、遊ぶように、
ただただ楽しんで、生きるようになったのだった。
だって、そのときには、もはや、
「私の人生」や「誰かの人生」すら、まぎれもなく、
Life = Love そのものの、ひとつの尊い表現であることが、
理屈を超えたところで、理解されていたから。
そうそう。
私がとても尊敬する、大好きなお坊さんが、
こんなことをおっしゃっていました。
「人生は夢そのもの。
だけど、それが夢であると気づいたからといって、
そこから逃れて山奥にこもることはない。
今度はね、夢を楽しむの。
夢だとわかって、夢を楽しめば、それでいいじゃないですか。
ほうっておいても、いずれ夢は終わるのだから。」
涙が出るほど、あたたかいことばだなあ、と……。
私たち、みんな、夢の中で生きているんです。
夢なんだから、ぜんぜん深刻になる必要はありません。
でも、夢だからこそ、真剣に、全力で、遊ぶこともできるんですね。
まあ、深刻になっても、まったく問題はないのだけれど(笑)
それだって、どのみち、夢の中のできごとなのだから。
今日も、楽しく、夢を生きていこう。
よい一日を◎
藤田一照さんの「さとり」インタビュー、
本日、いよいよ最終回です!
ぜひ、最後までお楽しみくださいませ~。
「つながり」を楽しんで生きること/藤田一照さんインタビュー(5/5)
http://www.higan.net/satori/2015/12/fujita5.html