「自由意思」のこと。

2015年12月9日

「自由意志はあるのか否か」

 

 

 

 

 

しばしば議論の対象になるテーマですが、

 

これ、2通りの答え方があると思うんですね。

 

今日はそのあたりを書いてみようと思います。

 

 

 

 

 

まずは、神的、仏的、宇宙的な答え方。

 

って、いきなりあやしさ満点ですが、

 

とにかく、大きな視点、っていうことです。

 

そこから見れば、すべては「ただ起きている」だけであって、

 

そこに、ひとりの人間の意思なんか、1ミリだって介在できないんですね。

 

 

 

仏教的に言えば「縁」ですね。

 

すべては「縁」によって、瞬間ごとに、生滅を繰り返している。

 

 

 

すべて、緊密に織りなされたご縁の網目の中の

 

一瞬の結節点に過ぎなくて、

 

人間ひとりひとりの「個」としての思考や感情や体感すらも、

 

その中では、絶対的な必然としての「全体」のあらわれとして、

 

過去も未来もなく、

 

ただただ、いまここで、瞬間ごとに、

 

戯れのダンスを踊っているだけ……

 

 

 

つまりは、神とか、仏とか、宇宙とか、

 

そういう、とにかく大きな大きな大きなところから見れば、

 

「ひとりの人間に自由意思はない」

 

「あるわけがない!」

 

ということになります。

 

 

 

「そんなのイヤだ~!」と泣こうが喚こうが、

 

残念ながら、これは、もう、絶対的な「ほんとう」です。

 

(キッパリ)

 

 

 

 

 

……が。

 

しかし、です。

 

ひとりの人間からしてみれば、

 

やっぱり、そんなの、そう簡単に信じられないんですよね(笑)

 

 

 

「自由意志はある!」

 

「あるったらある!!!」

 

って、鼻息も荒く絶叫したくなってしまいます。

 

 

 

まあ、当然です。

 

人間は、どうしたって「過去→現在→未来」という直線的な時間軸の中で、

 

「因果関係」にまみれて生きているから。

 

 

 

いきなり、

 

「時間なんか幻想!」「あるのは“いま”だけ!」

 

「よって因果関係もなし!」

 

「つまりは自由意志もなし!!!」

 

なんて言われたって、

 

「えー! そんなのウソだ! っていうかイヤだ!」

 

ってなるのが当たり前で。

 

「自分の人生は自分で作っていくんだよ!」

 

ってね。

 

 

 

うん。

 

それも、ある意味、「正解」です。

 

なにも間違っていない。

 

 

 

だって、いくら、宇宙規模のご縁の網目が緊密に織りなされていようとも、

 

ひとりの人間にその全体像を把握することなんか、

 

絶対に不可能なのだから。

 

 

 

なにが起こるのか、

 

そして、ほんとうのところ、なにが起きているのかすら、

 

誰にも、なにも、わからない。

 

 

 

わからない……

 

 

 

ならば、ひとりの人間にできることは、

 

「わからない」ことをそのまま受けとめて、

 

迷いつつ、悩みつつ、

 

過去への後悔や、未来への不安に押しつぶされそうになりながらも、

 

ただただ愚直にいまを生きて、

 

自由意思の名のもとに、

 

自らの望む人生を、自らの手で創り上げていくことだけ、ですよね。

 

 

 

それが「幻想」だとしても。

 

 

 

 

 

「幻想」が悪いわけじゃない。

 

むしろ積極的に肯定してもいいぐらい。

 

だって、その「幻想」すら、ご縁の中にきっちりと編みこまれているのだから。

 

「全体」の表現でないものなど、ないのだから。

 

 

 

 

 

私たち人間は、「夢」を見ることを“ゆるされている”んですね。

 

「自由意志によって、自分の人生を創り上げていく」という「夢」を。

 

誰に“ゆるされている”のかって?

 

「個」という幻想を超えたところに“在る”「全体」に、です。

 

 

 

その事実に、私は、果てしなく大きな“愛”を感じるのです。

 

 

 

 

 

 

 

すべては「幻想」だとしても、

 

ひとりひとりが「自由意思」を持って、

 

「人生」という名の“遊び”を楽しんで生きていけばいいじゃない、と。

 

それがゆるされているのだから、と。

 

ひとりのこらず、愛されているのだから、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も、目一杯遊んで生きていこう。

 

 

 

よい一日を◎