「自由意志はあるのか否か」
しばしば議論の対象になるテーマですが、
これ、2通りの答え方があると思うんですね。
今日はそのあたりを書いてみようと思います。
まずは、神的、仏的、宇宙的な答え方。
って、いきなりあやしさ満点ですが、
とにかく、大きな視点、っていうことです。
そこから見れば、すべては「ただ起きている」だけであって、
そこに、ひとりの人間の意思なんか、1ミリだって介在できないんですね。
仏教的に言えば「縁」ですね。
すべては「縁」によって、瞬間ごとに、生滅を繰り返している。
すべて、緊密に織りなされたご縁の網目の中の
一瞬の結節点に過ぎなくて、
人間ひとりひとりの「個」としての思考や感情や体感すらも、
その中では、絶対的な必然としての「全体」のあらわれとして、
過去も未来もなく、
ただただ、いまここで、瞬間ごとに、
戯れのダンスを踊っているだけ……
つまりは、神とか、仏とか、宇宙とか、
そういう、とにかく大きな大きな大きなところから見れば、
「ひとりの人間に自由意思はない」
「あるわけがない!」
ということになります。
「そんなのイヤだ~!」と泣こうが喚こうが、
残念ながら、これは、もう、絶対的な「ほんとう」です。
(キッパリ)
……が。
しかし、です。
ひとりの人間からしてみれば、
やっぱり、そんなの、そう簡単に信じられないんですよね(笑)
「自由意志はある!」
「あるったらある!!!」
って、鼻息も荒く絶叫したくなってしまいます。
まあ、当然です。
人間は、どうしたって「過去→現在→未来」という直線的な時間軸の中で、
「因果関係」にまみれて生きているから。
いきなり、
「時間なんか幻想!」「あるのは“いま”だけ!」
「よって因果関係もなし!」
「つまりは自由意志もなし!!!」
なんて言われたって、
「えー! そんなのウソだ! っていうかイヤだ!」
ってなるのが当たり前で。
「自分の人生は自分で作っていくんだよ!」
ってね。
うん。
それも、ある意味、「正解」です。
なにも間違っていない。
だって、いくら、宇宙規模のご縁の網目が緊密に織りなされていようとも、
ひとりの人間にその全体像を把握することなんか、
絶対に不可能なのだから。
なにが起こるのか、
そして、ほんとうのところ、なにが起きているのかすら、
誰にも、なにも、わからない。
わからない……
ならば、ひとりの人間にできることは、
「わからない」ことをそのまま受けとめて、
迷いつつ、悩みつつ、
過去への後悔や、未来への不安に押しつぶされそうになりながらも、
ただただ愚直にいまを生きて、
自由意思の名のもとに、
自らの望む人生を、自らの手で創り上げていくことだけ、ですよね。
それが「幻想」だとしても。
「幻想」が悪いわけじゃない。
むしろ積極的に肯定してもいいぐらい。
だって、その「幻想」すら、ご縁の中にきっちりと編みこまれているのだから。
「全体」の表現でないものなど、ないのだから。
私たち人間は、「夢」を見ることを“ゆるされている”んですね。
「自由意志によって、自分の人生を創り上げていく」という「夢」を。
誰に“ゆるされている”のかって?
「個」という幻想を超えたところに“在る”「全体」に、です。
その事実に、私は、果てしなく大きな“愛”を感じるのです。
すべては「幻想」だとしても、
ひとりひとりが「自由意思」を持って、
「人生」という名の“遊び”を楽しんで生きていけばいいじゃない、と。
それがゆるされているのだから、と。
ひとりのこらず、愛されているのだから、と。
今日も、目一杯遊んで生きていこう。
よい一日を◎