「おいしい」「ありがとう」「愛しています」

2015年12月2日

私は、食べる量自体は、一般の人に比べてうんと少ないですが、

 

(ここ数年来、ほぼ一日一食です。)

 

その分、食べるときは思いっきり味わっていただきます。

 

一緒にいる人に笑われるぐらい、

 

「おいしい!」

 

を連呼しながら食べています。

 

 

 

誰かが作ってくれた料理をいただくときはもちろんですが、

 

自分で作った料理をも、

 

「お~い~し~い~~~」

 

と、悶絶しながら食べているのだから、

 

我ながら、変な人だなあ、と思います……。

 

 

 

いや、私の作るものなんて家庭料理の域を出ないですよ。

 

料理をすること自体は好きだけど、

 

決してお店では出せないだろうな~っていうようなレベルの代物を

 

毎日せっせと作って食べています。

 

でも、なんというか、間違いなく、「おいしい」のです。

 

味や見た目を超えて、「おいしい」なにかが、

 

確実に、そこには、ある……。

 

 

 

たぶん、料理を終えて、食卓に並べて、

 

両手を合わせて「いただきます」をする瞬間には、

 

目の前のお皿に乗った料理の数々は、

 

もはや「私の作ったもの」ではなくなっているのだと思うのですね。

 

思う、というか、実際に、そんな感覚が、ある。

 

 

 

確かに、小一時間キッチンに立って、

 

材料を切ったり、煮たり、炒めたり、和えたりしたのは「私」です。

 

でも、実際に完成した料理からは、どういうわけか、

 

「私」の影が消えてしまっているんです。

 

そのときには、もはや、ただの「料理」になっているんです。

 

 

 

だからこそ、無邪気に、

 

「おいしい!」

 

を連呼できるのですね。

 

 

 

で、です。

 

その「おいしい」には、

 

たぶん、

 

「ありがとう」も、

 

「愛しています」も、

 

入っていると思うんです。

 

 

 

なんというのかな。

 

目の前にその料理があるのは“必然”で、

 

その“必然”を成り立たせるために、

 

個としての「私」が動いた、というか、動かされた、というか……。

 

そこに、「私」は、いるけど、いない、というか……。

 

 

 

「私」を動かしている“大元のエネルギー”(あやしい?)に対しての、

 

ありったけの「ありがとう」と、

 

ありったけの「愛しています」を、

 

「おいしい」のひとことで、

 

表現しているような……気が……しなくも……ない。

 

 

 

気のせい?

 

いや、気のせいだけじゃない気がするよ。

 

 

 

 

 

禅宗で料理が重んじられている理由が、

 

なんとなく、わかってきたような……。

 

なんて。

 

 

 

日々の営みは、偉大だね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も、作って、食べて、しゃべって、笑って、

 

そうやって生きていこう。

 

 

 

よき日をお過ごしください。