つい先日、私は、久しぶりに、「大泣き」という行為に没頭しました。
いや、こんな風に表現すると、非常に奇妙な感じなのですが、
でも、実感として、一番しっくりくる言い方がこれなのです。
実際、私は、途中から、
「泣こう! いまは泣くときだ!」と思って、
ほとんど「意図的に」涙を流しっぱなしにしていたのでした。
大泣きのきっかけは明白でした。
簡単に言えば「ショックな出来事」っていうのが
我が身に降りかかってきたわけですが、
それは、ほんとうに、単なる「きっかけ」でしかなかったんです。
たぶん、私は、単純に「泣きたかった」んだと思う。
少し前から、私の中に、「悲しみ」としか呼べないなにかが、
しんしんと溜まり続けていっているのを感じてはいたのですが、
(特別になにかがあったわけでもないけれど、日々見聞きするあれやこれや、
肌で感じるあれやこれやに、こころは小さく傷つき続けていたのでしょう)
でも、まあ、そのままでも、日常生活を送る上では、特別に支障はないし、
見て見ぬふりをし続けていたのですが、
それでも、「悲しみ」自体は、
きっと、ずっと、外に出たがっていたのだと思います。
ショックな出来事という「きっかけ」を得て、
涙という形となって外に飛び出した「悲しみ」は、
一度勢いをつけたら、とどまるところを知りませんでした。
右目から左目から、涙はあとからあとから湧いてきて、
まったく止まりそうになかったので、
「ちょ、ちょ、ちょっとタンマ……!」(←この言い方から昭和臭が……!)
とばかりにお風呂場に駆け込んで、
「よし、ここで思いっきり泣こう!」と。
そこから2時間以上、連続で泣き通しでした。
誰に遠慮することなく、わんわんぎゃんぎゃん泣きました。
「いまは泣くときだ!」と思って、わんわんぎゃんぎゃん泣きました。
で、ある瞬間に、涙はぴたっとおさまりました。
たぶん、からだの中に溜まっていた「悲しみ」が、
綺麗さっぱり「からっぽ」になった瞬間だったのでしょう。
シャワーを浴びて、歯を磨いて、布団に入ったら、
その瞬間に、ほとんど気絶するようにして、眠りに落ちてしまいました。
ぐっすり眠って、次に目覚めたら、
両目は、さすがにベンゾーさんみたいに腫れ上がっていましたが、
あたまも、からだも、こころも、
とにかく、驚くほどクリアで、
深呼吸をすると、朝の冷たい空気が、
すみずみまでしみわたっていくのが感じられて……
なんだか、とっても爽快なのでした。
その日は、一日その爽快感が続いていました。
さらに、すっかり「からっぽ」になった
私のあたま、からだ、こころには、
いま、まさに、私が必要としていた「答え」が、
いろんな形をとって、まったくあたらしく、次々に訪れてくれたのです。
光が、見えた気がしました。
ああ、そうか。
私は、これが欲しかったんだな、と。
ここにある光を見出すには、
私の中には、あまりにも「悲しみ」が詰まり過ぎていた。
それを追い出すために、あの出来事が、あったんだな、と。
ショックな出来事があったから泣いたんじゃなくて、
泣きたかったから、あの出来事にショックを受けたんだ、と。
泣くことが必要だったから、きっかけが与えられたんだ、と。
確信を持って、そう感じたのです。
なんだ、うまくできてるじゃん。
安心して、ゆだねていても、いいんじゃん。
ことばにするとやけに陳腐な感じになってしまうのですが、
でも、ほんとうに思ったのです。
世界は、私の悪いようにはしない。
ぜんぶ、これで、大丈夫。
オールオッケーだ!
私の見たかった圧倒的な希望の光の中で、そう思ったのです。
……うまくまとめられた気がしないけれど、実感の中で書いてみました。
なにか、届いてくれるといいな。
日日是好日
今日も、お元気で。