====================================================
スガヒコ 「ふーーー。宇宙で吸うタバコのうまいことよ~~~」
マリちゃん「大仕事のあとだもんね。」
スガヒコ 「うん……」
マリちゃん「嬉しくないの? 作戦成功したのよ。」
スガヒコ 「うーん。なんか寂しいっつーか、モヤモヤした気分なんだ。」
マリちゃん「地球を救ったのよ。寂しくなる理由なんてないわよ。」
スガヒコ 「なあ、マリちゃんさあ。さっきの隕石のことなんだけど……
あれ、やっぱ泣いてたんじゃないかなあ。」
マリちゃん「だからあれは太陽光線が反射して……」
スガヒコ 「うん。それはわかってるんだけど……。
もしあの隕石が生きていたとしてみ。
寂しかったと思うぞ。宇宙でたったひとりきりなんだもん。」
マリちゃん「スガくんらしい発想よね。」
スガヒコ 「夢とか見ていたんじゃないだろうか?
長ーーーくて悲しい夢をさあ。」
(『ワイルドマウンテン』8巻 本秀康=著 小学館=刊)
====================================================
長い長い長い長い「夢」を見ながら、
この広大な宇宙を、たったひとりきりで旅し続けている隕石が、
私たち人間、ひとりひとりの姿だとしたら……
それは、「さみしい」ことなのかな?
その図を思い浮かべてみると、やっぱり、それは、
とてつもなく、さみしいことのように思えます。
だって「ひとり」なんだもん。
「ひとり」は、さみしいです。
でも、ほんとうのところ、
「私」も「宇宙」も「夢」すらも、
ぜんぶぜんぶぜんぶ、
「わたし」なのだとしたら?
「わたし」しか、いないのだとしたら?
そもそも「わたし」しかいないのなら、
「わたし」がさみしさを感じることはないでしょう。
だって、さみしさの母体となるべき「ひとり」すら、
ほんとうの「ひとり」には、感じることはできないのだから。
他者の視点を一切持ち込まず、
完全に、完璧に、
「ひとり」としての「わたし」に徹し切ってしまえれば、
そこには、同時に、
「すべて」としての「わたし」が見えてくる……
ほんとうは、なにも、さみしいことなんかない。
安心していても、いいみたいです。
連休最終日。
どうか、よき日をお過ごしください。