隕石(ハガレゴッド)の孤独

2015年11月23日

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スガヒコ 「ふーーー。宇宙で吸うタバコのうまいことよ~~~」

 

マリちゃん「大仕事のあとだもんね。」

 

スガヒコ 「うん……」

 

マリちゃん「嬉しくないの? 作戦成功したのよ。」

 

スガヒコ 「うーん。なんか寂しいっつーか、モヤモヤした気分なんだ。」

 

マリちゃん「地球を救ったのよ。寂しくなる理由なんてないわよ。」

 

スガヒコ 「なあ、マリちゃんさあ。さっきの隕石のことなんだけど……

 

      あれ、やっぱ泣いてたんじゃないかなあ。」

 

マリちゃん「だからあれは太陽光線が反射して……」

 

スガヒコ 「うん。それはわかってるんだけど……。

 

      もしあの隕石が生きていたとしてみ。

 

      寂しかったと思うぞ。宇宙でたったひとりきりなんだもん。」

 

マリちゃん「スガくんらしい発想よね。」

 

スガヒコ 「夢とか見ていたんじゃないだろうか?

 

      長ーーーくて悲しい夢をさあ。」

 

 

 

(『ワイルドマウンテン』8巻 本秀康=著 小学館=刊)

 

 

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長い長い長い長い「夢」を見ながら、

 

この広大な宇宙を、たったひとりきりで旅し続けている隕石が、

 

私たち人間、ひとりひとりの姿だとしたら……

 

それは、「さみしい」ことなのかな?

 

 

 

その図を思い浮かべてみると、やっぱり、それは、

 

とてつもなく、さみしいことのように思えます。

 

 

 

だって「ひとり」なんだもん。

 

「ひとり」は、さみしいです。

 

 

 

 

 

でも、ほんとうのところ、

 

「私」も「宇宙」も「夢」すらも、

 

ぜんぶぜんぶぜんぶ、

 

「わたし」なのだとしたら?

 

「わたし」しか、いないのだとしたら?

 

 

 

そもそも「わたし」しかいないのなら、

 

「わたし」がさみしさを感じることはないでしょう。

 

だって、さみしさの母体となるべき「ひとり」すら、

 

ほんとうの「ひとり」には、感じることはできないのだから。

 

 

 

 

 

他者の視点を一切持ち込まず、

 

完全に、完璧に、

 

「ひとり」としての「わたし」に徹し切ってしまえれば、

 

そこには、同時に、

 

「すべて」としての「わたし」が見えてくる……

 

 

 

 

 

ほんとうは、なにも、さみしいことなんかない。

 

安心していても、いいみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

連休最終日。

 

どうか、よき日をお過ごしください。