ふと思い立って、「すべて」ということばを辞書で調べてみました。
すべ‐て【全て/▽凡て/▽総て】
《動詞「す(統)ぶ」の連用形+接続助詞「て」から》
[名]
ある物や、ある事の全部。いっさい。「―を知る」「見るもの―が珍しい」「金が―の世の中」
[副]
1 ことごとく。残らず。「財産を―投げ出す」「見たことを―話す」
2 おおよそ。大体。総じて。
3 (打消しの語を伴って用いる)全然。まるっきり。
ふむ……。
今度は「す(統)べる」を調べてみたところ……
す・べる【統べる/▽総べる】
1 全体をまとめて支配する。統轄する。「国を―・べる」
2 多くの物を一つにまとめる。
支配…… 統轄……
なるほど……。
でも……これ、どうなんでしょうね。
その“まとまり”とか“ひとつ”とかって、
人間が手を加えなければ、
つまり、「統べる」ということをしなければ、
成り立たないようなものなのかな?
私もこのブログでしょっちゅう「すべて」っていうことばを使うのですが、
これね、私のイメージとしては、
「バラバラのものを無理やりひとまとめにしている」
といったものではなく、
「本来的に“ひとつ”であるものを、そのままに見ている」
というニュアンスなんですね。
「私」も「あなた」も「彼」も「彼女」も
「右」も「左」も「上」も「下」も
「東」も「西」も「北」も「南」も
「これ」も「それ」も「あれ」も
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ほんとうは“ひとつ”。
だけど、その“ひとつ”は、決して、色のない平坦な世界なんかじゃない。
「私」も「あなた」も「彼」も「彼女」も
「右」も「左」も「上」も「下」も
「東」も「西」も「北」も「南」も
「これ」も「それ」も「あれ」も
ひとつひとつが、ちゃんと“個性”を持っている。
でも、その“個性”のベースには“ひとつ”がある。
本来的に“ひとつ”だからこそ、“個性”の出現がゆるされる、というのかな……。
これってものすごく豊かな世界ですよね。
人間が無理やりひとまとめにしなくても、
すべて、最初から、そのようになっている。
人間にできるのは、
力を抜いて、すべてをゆだねて、すべてにまかせて、ゆったり生きていくこと、
それだけなのかもしれません。
それだけで、豊かな世界を生きていくことができる。
個性を発揮しつつ、心安らかに、
“すべて”としての“わたし”を、生きていくことができる。
ひとりひとりがそれをやっていく。
ほんとうの平和は、そこに立ち現れてくるんじゃないかな。
ひんやりした風が心地よい東京の朝です。
そちらはいかがですか?
よき日をお過ごしくださいませ。