世界の一切から手を引いてみれば。

2015年11月4日

たとえば起き抜けに眠い目をこすりながら白湯を沸かしているとき。

 

たとえば近所の月極駐車場で気持ち良さそうに日向ぼっこをする野良猫を見るとき。

 

たとえばよく晴れた青空に音もなく浮かぶ飛行船を見つけてぎょっとするとき。

 

たとえば雨に濡れた髪をタオルハンカチで乱暴にふいているとき。

 

たとえば駅で向こう側のホームに立つ疲れた顔の人々の群れを眺めるとき。

 

たとえば腰のだるさを感じながら夜間の郵便窓口で荷物受取のサインをするとき。

 

たとえば小さな声で「ハレルヤ」と歌いながら千鳥足で夜道をゆくおじさんとすれ違うとき。

 

 

 

ふいに、「世界」の一切から手を引くような感覚がやってきて、

 

その「一切」は文字通り「一切」であって、

 

そこには、この「私」だって、もちろん含まれていて……

 

 

 

「私」から手を引いたところから眺める「世界」に「中心」はなく、

 

だからこそ、全部が“そのまま”「中心」なのであり、

 

ガスコンロの青い炎も、猫たちのやわらかな毛も、

 

巨大な飛行船も、額に落ちる雨のしずくも、

 

人々の疲れも、私の腰のだるさも、見知らぬおじさんのハレルヤも、

 

すべては、まったく“そのまま”“ありのまま”の姿で、

 

リアルすぎるほどにリアルなものとしてそこにあって、

 

そのすべてが愛おしく、

 

そのすべてが、泣きたいぐらいにかけがえがなくて……

 

 

 

ただただ、「世界」は、うつくしいよ、と。

 

「愛」そのものとしての「世界」は、うつくしいよ、と。

 

 

 

「世界」に恋をしている……と言いたいところだけれど、

 

でも、恋をしている「私」はそこにはいなくて。

 

 

 

「私」から手を引いたところに出現した「わたし」が、

 

「愛」そのものとしての「世界」と、

 

ただただ「ひとつ」として、

 

「いま」「ここ」にある。

 

 

 

こんな感じかなあ……。

 

 

 

 

 

どんなにことばを費やしたところで、「世界」へのラブレターは永久に完成しない気がします。

 

でも、書かずにはいられないのです。

 

だから、これからも、毎朝、毎晩、挑戦し続けます。

 

 

 

 

 

 

 

よき日を!