昨日の記事を読んでくれた夫から、
「“南無阿弥陀仏”でひとかたまりなんだね。
“南無”と“阿弥陀仏”に分かれているわけじゃないんだね。」
といったような感想をもらって、私自身、ハッとしました。
まあ、昨日書いたのは、あくまで「こんな夢を見た」というお話なのですが、
夢は潜在意識をそのままかたちにしたものだとも言われていますしね、
そこから気づきをいただくことも多々ございます。
その意味で、あの「南無阿弥陀仏の夢」は、
かなりわかりやすいものだったなあ……と。
分析的に考えれば、「南無阿弥陀仏」っていうのは、
「南無」+「阿弥陀仏」
ということになりますよね?
「南無」っていうのは、「○○に帰依します」といったような意味の言葉。
「阿弥陀仏」は、そのまま仏さまの名前ですね。
だから、「南無阿弥陀仏」っていうのは、本来的には、
「阿弥陀仏に帰依します」
と言ったような意味になるのですが、
でも、よくよく思い返してみれば、
普段、念仏をとなえる(もしくは念じる)とき、
私は、もはや、「阿弥陀仏」と呼ばれる“なにか”を
「私」と別個の存在として思い浮かべるようなことは、
まったくしていないなあ……と。
「南無阿弥陀仏」をとなえているときは、
ただただ、その六文字とともにあるだけだなあ……と。
つまり、「帰依すべき対象としての阿弥陀仏」と「帰依している私」との間には、
一切の断絶がないなあ……と。
もっと言えば、「南無阿弥陀仏」とともにあるときは、
「私」と「私以外」、もしくは「私」と「世界」との間に、
一切の断絶が生じていないなあ……と。
だから、「南無阿弥陀仏」は“ひとかたまり”でなければいけないんだなあ……と。
……と、まあ、あらためてことばでとらえ直したら上記のようなことになるのですが、
もはや、「南無阿弥陀仏」自体が、ことばを超えたことばなので、
そもそもそれをことばで説明するのには、
最初から限界があるような気がしています。
念仏っていうのは、たぶん、頭でとらえるようなものじゃないし、
そもそもとらえることのできないものだと思うんです。
「となえる」という行為を経て、
ただただ、それと「ともにある」ということをして、
はじめて、ほんとうの意味で、「南無阿弥陀仏」と出会えるのだと思う。
まあ、そのときにはすでに、
出会うべき「ふたつ」は、完全に「ひとつ」になっているので、
ここでもまた、ことばの限界を感じざるを得ないわけですが……。
まあ、だいたい、こんな感じかな、と……。
以上、右脳的現象の左脳的解釈でした(笑)
月曜日ですね。
また一週間、楽しく生きていきましょう!