山は山。川は川。

2015年9月18日

禅の説話に、こういうものがあります。

 

 

 

禅を学ぶ前には、その人にとって山は山であり、川は川であった。

 

禅を学びはじめると、もはや山は山ではなく、川は川ではなかった。

 

しかし、一度さとりの境地に達するや、ふたたび、山は山となり、川は川となった。

 

 

 

ポイントは最後の部分。

 

「ふたたび、山は山となり、川は川となった」というところ、ですね。

 

 

 

禅のさとりへの10段階を描いた『十牛図』でも、

 

最後の図には、妙な風体のおじさんが、酒瓶を手に持って、

 

どこにでもあるような街の真ん中で、ニコニコ笑っている様が描かれています。

 

 

 

「さとり」なんて言うと、どうしても、山奥の洞窟に住む仙人のような人にしか

 

訪れないような境地なんだ……とかって思ってしまいますけど、

 

そんなのは単なるイメージに過ぎなくて。

 

 

 

あなたの隣に座っている「ごくごくふつう」なその人、

 

もしかしたら「さとり」を生きている人かもしれないよ?

 

っていうことで。

 

 

 

さとったからと言って、特殊能力が使えるようになるわけじゃない。

 

(そういう人もいるかもしれないけれど。)

 

いつでも穏やかに微笑んで、絶対に怒らない、なんていうこともない。

 

(そういう人もいるかもしれないけれど。)

 

ただただ、「当たり前」を、「当たり前」に生きていくだけ。

 

 

 

でも、その「当たり前」の質が、以前とはまったく違ったものになっていることは確かで。

 

というか、ほんとうの意味で「当たり前」を“直に”生きるって、

 

実は、ものすごいことなんですよ~、ということで。

 

 

 

私たちは、ふつうに生活していて、山を山だと思っているし、川を川だと思っていますよね?

 

でも、それは、誰かにそう教えられたからそう「認識している」だけで、

 

山や川を“直に”「経験している」わけじゃない。

 

 

 

「さとり」を生きている人たちは、

 

山を山だと、川を川だと「認識する」前に、

 

「いま」「ここ」に、瞬間ごとに立ちあらわれる「すべて」を、

 

「すべて」とともにありながら、

 

「そのまま」、「ありのまま」に、

 

ただただ、「経験している」んです。

 

 

 

でも、

 

山を山として、川を川として、

 

“直に”「経験」できるようになるためには、

 

一度、

 

「もはや山は山ではなく、川は川ではなかった」

 

というところを観じなくてはならないんです。

 

「空(くう)」に還らなきゃいけない、ということです。

 

 

 

そうして、徹底的に、空に身を浸し、空を空じ切ったところに、

 

はじめて、

 

「当たり前」のものは、

 

決して「当たり前」のものとしてじゃなく、

 

それでも、さも「当たり前」であるかのようにして、

 

“直に”

 

立ちあらわれてくるのですね……。

 

 

 

そうなればしめたもの。

 

あとは、

 

「当たり前」であって、

 

決して「当たり前」でない「世界」を、

 

ごくごく「当たり前」に生きていくだけ。

 

でも、そこには根源的な「しあわせ」が常に伴っている……。

 

 

 

 

 

ひとりひとりの「当たり前」の質が変わったら、

 

「世界」は一変してしまいますね。

 

 

 

 

 

当たり前を、当たり前じゃなく、でも当たり前に……

 

ただただ、生きていこう。

 

 

 

 

 

 

 

よき日を!