「夢」について。

2015年9月16日

どんなたとえ話も、それが「ことば」というものを用いてなされる限り、

 

完璧なものにはなりません。

 

最近、あるお坊さんに教えてもらって、とても気に入った表現に、

 

「ことばは地図であって、現地でない」

 

というものがありますが、まさしくそれで。

 

地図は、それがどんなに精巧に作られた地図であっても、結局は地図でしかないんです。

 

よく出来た地図を所有していたとしても、実際に自分の足で歩き始めなきゃ、

 

望む場所をこの目で実際に見ることはできません。

 

 

 

私はよく、

 

「人生は、それ自体が壮大な“夢”なんです」

 

といったような表現を使います。

 

これ、私の実感としては、かなり真実に近い表現なのですが、

 

なので、好んで使っているのですが、

 

これだって、結局は「たとえ」でしかなくて、

 

決して完璧な表現ではないんだよなあ……

 

と、もどかしい思いを抱えながら、書いたり、話したりしています。

 

 

 

……前置き(というか言い訳?)が長くなりましたが。

 

 

 

以前、下記のようなことをこのブログに載せました。

 

(2015年5月25日 「安心(あんじん)」について より)

 

 

 

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“私たちは、ひとりのこらず、どんな人でも、

 

いつだって仏さまの救いの手のひらの上にいる”

 

 

 

 

仏さまの救いの手のひらは超巨大です。

 

もう、考えられないぐらいに、果てしなく大きいんです。

 

それこそ、全人類ひとりひとりが、

 

一人一枚ずつ自分専用の布団セットを一組ずつのべたとしても、

 

まだまだ全然余裕があるぐらいの巨大さです。

 

私たちは、たとえて言うなら、仏さまの超巨大な手のひらの上に敷かれている

 

ふっかふかでお日さまの匂いのする超高級羽毛布団にくるまって、

 

その中で、め~ちゃめちゃぐっすり眠り込んで、

 

「人生」という名の個別の夢を見ているに過ぎないんですね。

 

 

 

で。

 

仏さまは、自分の手のひらの上でぐっすり眠りこんでいる、

 

何億、何十億という人類のひとりひとりに、

 

まったく平等に、まったく同時に、慈愛のこもったまなざしを投げかけてくださっています。

 

片時も目を離すことなく、やさしく見守ってくださっているのです。

 

 

 

そういった、絶対的に、安心・安全な環境の中にいるのにもかかわらず、

 

私たちは、ときにひどい悪夢を見て、

 

「この世の終わり……」とばかりに、深刻そうに苦悶の表情を浮かべ、

 

涙や鼻水まみれになりながら、「うーん、うーん」とうなされたりしているのです。

 

 

 

でも、これ、結局、そもそも、ぜんぶ夢なんですよね。

 

夢なんです。

 

 

 

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夢。

 

自分で書いといてアレですが、

 

完璧じゃないとしても、やっぱりこの表現、好きだなあ……。

 

 

 

あ、そうそう。

 

なんでこの話をもち出したのかと言うと

 

(ようやく本題!!!)

 

「夢」それ自体が悪いわけじゃないんです、ということを言いたくて。

 

 

 

まあ、私もね、毎日地道にこんなブログを書いてみたり、イベントを開いてみたりしているので、

 

「“夢”なんて大嫌い!」な人間かと思われてしまっているかもしれないのですが、

 

決してそんなことはないんです。

 

 

 

夢は、夢で、楽しいものだもの。

 

夢の中じゃないと味わえないものだって、たくさんあるもの。

 

それは、重々承知の上です。

 

 

 

なので、「夢を楽しみたい!」という人を否定するつもりは一ミリもないんです。

 

「まだ眠っていたいよ~。夢を見ていたいよ~。」

 

とムニャムニャつぶやく人の布団を無理やり引っぺがすような、

 

そんな手荒な真似は避けたいと思っているし、

 

そんなことをするつもりもないし、

 

その必要も感じていないし、

 

もし、「起きたくないよ~!」という人が寝相を悪くして、

 

布団がずれてしまって、

 

おなかや足がはだけてしまっているようなら、

 

布団をそっとかけ直して、ポンポン、とやって、

 

「ぐっすりお眠りよ……」

 

と声をかけるようなタイプの“やさしさ”も、私の中にはちゃんと備わっています。

 

 

 

でも。

 

世の中には、全体の割合からすればかなり少ないかもしれないけれど、

 

潜在的にであれ、顕在的にであれ、

 

「夢が夢であることに気づき始めた人」

 

というのも、一定数、確実に存在するもので……。

 

で、そういう人たちが、もし、「悪夢」を見てうなされているようなら、

 

その枕元まで駆けて行って、その人の耳元で、そうっと、

 

「ねえねえ。それ、ぜんぶ夢かもしれないよ?」

 

「目を開けてみても、だいじょうぶかもしれないよ?」

 

なんてことをささやいてあげる……

 

そういう、先ほど書いたものとはベクトルの違う“やさしさ”の発露としての、

 

毎日のブログだったり、イベントだったりするわけで……。

 

 

 

まあ、たまにね、

 

悪夢にうなされている人の枕元に駆けていく途中で、

 

「まだ眠っていたいよ~」というタイプの人の布団を

 

思いっきり蹴飛ばしてしまったりして(笑)

 

で、その眠り込んでいる人に(眠りながら)怒鳴られたり、

 

その人を(眠りながら)不機嫌にさせてしまったり……

 

といったことも、なきにしもあらずなので……

 

なかなか、難しいですね……。

 

 

 

まあ、どのみち、すべて、仏さまの手のひらの上で起こっていることなので、

 

なにがどうあっても「だいじょうぶ」なことに変わりはないのですが……。

 

 

 

そうそう。最近、これもまた、とても尊敬しているあるお坊さんから、こんなことばをお聞きしたんです。

 

 

 

「夢と知りつつ、夢を生きるのも、また楽しいこと」

 

 

 

 

 

 

 

今日も、楽しく、生きていきましょう。