「だいじょうぶ」ということ。

2015年9月15日

時折、声にならない声のようなものを、

 

「聞く」のではなく、「感じる」ことがあります。

 

いや、もはや「感じる」ことすらしていないかもしれない……。

 

なんだろうな……。

 

ただただ、“声”そのものと、「一体となって」「ともにある」という感じかな……。

 

 

 

その声は、言語を超えたところからの声なので、

 

決してことばに置き換えられるようなものではないのだけれど、

 

まあ、あえて翻訳するとしたら、

 

 

 

「だいじょうぶ」

 

 

 

これがいちばん近いかな……。

 

 

 

これは、決して、小出遥子の声ではなくて。

 

小出遥子という個人を遥かに超えたところから、

 

小出遥子という個人をひっくるめた「世界」全体への、

 

ことばを超えた呼びかけです。

 

 

 

ほんとうは、すべて、「だいじょうぶ」でできている。

 

「だいじょうぶ」の中には、

 

一見して「だいじょうぶじゃなさそうなこと」も混じっているけれど、

 

でも、それすらまるごとつつみこんで、

 

ひとつ残らず、「だいじょうぶ」

 

ほんとうは、ぜんぶ、「だいじょうぶ」

 

 

 

「だいじょうぶ」じゃないことなんか、ひとつもない。

 

 

 

「安心していていいんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

南無…………