「からだ」は自然。「あたま」も自然。

2015年9月14日

昨日はあまり体調がよろしくなくて、

 

お昼に、数時間、横になっていたのですが……。

 

 

 

横になっても(?)タダじゃ起きない小出です。

 

「おなか痛い~」「ダルい~」「重い~」

 

「早く過ぎ去れ~~~」

 

なんてことをつぶやきつつ、

 

どこかで、その「痛さ」「ダルさ」「重さ」を

 

じっくり観察して面白がっていたようなところがあって。

 

 

 

いや、「面白がる」とか言うと語弊があるのですが……。

 

なんだろ。でも、「興味深いなあ」とは思っていました。

 

なんてことを言うと「余裕じゃん!」とかって思われそうだけど、

 

まあ、実際、痛いし、ダルいし、重いわけなので、

 

決して余裕があったわけではないのですが、

 

でも、余裕がないなりに余裕があったというか……。

 

余裕があったから観察が可能だったのか、

 

観察ができたから余裕が生まれたのか、

 

そのあたりは、謎です。

 

 

 

まあ、とにかく、昨日は、横になりつつ、それらの不快な症状たちを観察していたわけですよ。

 

そうしたら、割とすぐに、ひとつの事実に行き当たるんですね。

 

その事実っていうのは、

 

「これらの不快な症状、ぜんぶ、“私”の意志とは無関係に起こっている!」

 

ということ。

 

 

 

「当たり前じゃん!」の声が聞こえてきそうですが……

 

でも、本当に、普段、それを「当たり前」だと思って生活しているかな? というところで。

 

 

 

私たちは、とかく「あたま」優位で、

 

「からだ」のことをほとんど省みないままに生きているような気がしていて。

 

「あれを食べよう」

 

「あの服を着よう」

 

「あそこに行こう」

 

「あの人に会おう」

 

「何時に寝て、何時に起きよう」

 

ぜんぶ、自分のあたまで考えて、行動に移していると思っています。

 

逆に言えば、自分に関わるすべてのことは、

 

全部自分がやっている、と思ってしまっている、ということ。

 

 

 

でも、そんなのは勘違いに過ぎないんですね。

 

 

 

調子を悪くして、数時間横になっているだけで気づきます。

 

「ああ、首から下で起こっていることに対して、

 

“私”ができることなんか、なにもないのだよなあ……」

 

って。

 

 

 

“私”がなにをしようがしまいがお構いなしに、

 

臓器はごくごく勝手に動いて、

 

血液を流して、

 

栄養素を届けて、

 

老廃物を回収して、

 

それらを、ただただ、愚直に繰り返し続けてくれていて……。

 

そうやって“私”を生かしてくれていて……。

 

 

 

すごいですよね。

 

これこそ「自然」。

 

こんなことが自分のからだの中で起こっているなんて、奇跡です。

 

 

 

まあ、首から下のことに関しては、わかりやすいと言えばわかりやすいんです。

 

「これ、ぜんぶ、“私”の意志とは関係なく、そういう風に動いているんだよなあ」って、

 

しみじみと、ありがたく、その事実を受け取ることができます。

 

 

 

でも、実は、首から上のことだって、

 

首から下のこととまったく同様、

 

ぜんぶ「ただ、起きている」ことなのだとしたら?

 

「あれを食べよう」も、

 

「あの服を着よう」も、

 

「あそこに行こう」も、

 

「あの人に会おう」も、

 

「何時に寝て、何時に起きよう」も、

 

“私”が考えたことなんかなにひとつなくて、

 

ほんとうは、ぜんぶ、

 

「ただ、起きている」だけなのだとしたら?

 

 

 

そして、どうも、それは事実みたいです。

 

 

 

そりゃそうでしょう。

 

「からだ」に、「首から上」も「首から下」もありません。

 

頭のてっぺんからつま先まで、ぜんぶひっくるめて「からだ」です。

 

「あたま」だけは「からだ」じゃない、なんて、

 

そんなおばかなお話があるわけがないんです。

 

 

 

昨日のお昼の下腹部の痛さやダルさや重さが、

 

いつの間にか「起こって」、

 

そしていつの間にか「過ぎ去って」いったように、

 

(いまはピンピンしています!)

 

「あれを食べよう」とか、

 

「あの服を着よう」とか、

 

「あそこに行こう」とか、

 

「あの人に会おう」とか、

 

「何時に寝て、何時に起きよう」とかだって、

 

ほんとうはぜんぶ、

 

“私”の意志とはまったく関係なく、

 

いつの間にか「起こって」、

 

そしていつの間にか「過ぎ去って」いく……

 

ただ、それだけのものなのかもしれません。

 

 

 

そう考えると、ありとあらゆることを、

 

あたまでこねくり回して解決しようとしている自分自身が

 

なんだかすっかりばからしくなってきますよね。

 

 

 

「事はただ起きている」

 

「“私”の意志とは関係なく起きている」

 

 

 

観念して、ゆるんで、手放して、

 

すべてに対して、

 

「おまかせします」「思召すままに」ができたら、

 

楽になれるのにね。

 

 

 

まあ、ごちゃごちゃとあたまを使って

 

いろんな「はからいごと」をしてしまう“私”っていうのも、

 

結局、すべて、「ただ起きている」ことの一部だったりするので、

 

どこまで行っても逃れられないのですけれど。

 

 

 

でも、その「逃れられなさ」にこそ、ほんとうの安らぎがあるんじゃないかな……なんて。

 

 

 

できる限り、気楽に生きていきたいものですね。

 

 

 

 

 

 

 

よき日をお過ごしください。