さとりのきっかけ

2015年9月7日

http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/satori1.html

 

このリンクの、表4-1をご覧ください。

 

有名な禅僧たちが、なにをきっかけとしてさとったのかが一覧にしてあります。

 

これ、めちゃめちゃ面白くって、

 

昨日も、吉祥寺の街を歩きながら、夫と二人、このいちいちにツッコミを入れていたのですが……

 

(どんな夫婦だ……!)

 

 

 

だって、

 

ゴータマ・ブッダ:暁の明星がまばたくのを見た時

 

一休宗純:烏の鳴き声を聞いた時

 

盤珪永琢:梅の花の香りを嗅いだ時

 

山田無文:真黄色な銀杏を見た時

 

抜隊得勝:谷川の音が心身に沁み渡った時

 

洞山良价:水面に写る自分の影を見た時

 

とかは、なんというか、いかにも「うつくしい」じゃないですか。

 

「I’s SATORI !!!」という感じ。

 

「さすが! かっこいい! しびれちゃう~!」と。

 

 

 

だけど、

 

臨済義玄:黄檗から三度痛棒を喫した時

 

百丈懐海:鼻柱を捻り上げられ痛さを感じた時

 

郁山主:驢馬から放り落とされた時

 

夾山善会:船から川に落ちた瞬間

 

とか、

 

果ては、

 

原田祖岳:小便の泡がクルクル動いているのを見た時

 

とかいうのは……

 

なんというか、非常に、反応しづらい……というか……。

 

 

 

でも、まあ、

 

うつくしいとかそうじゃないとか、

 

かっこいいとかそうじゃないとか、

 

それっぽいとかそうじゃないとか、

 

そんなのはぜんぶ外側からの判断であって、

 

「さとっちゃった!」

 

「わかっちゃった!」

 

ような人にとっては、

 

そういった外からの評価は、

 

はっきり言って「どうでもいい」ことなのであって、

 

というか、きっかけ自体「どうでもいい」ことなのであって、

 

こだわるようなポイントなんか、そこには一切ないのでしょう。

 

 

 

きっかけは、あくまできっかけに過ぎないんですよね。

 

というか、ほんとうは、それは「きっかけ」ですらない。

 

「準備が整った」人にとっては、

 

それはある意味、なんでもよかったんだと思います。

 

 

 

だから、たとえば、

 

暁の明星があまりにもうつくしかったから、

 

カラスがあまりにも大きな声で鳴いたから、

 

梅の花があまりにもかぐわしかったから、

 

だから私はさとりました!

 

とか、そういうお話じゃないと思うんです。

 

 

 

むしろ逆で、

 

「準備が整った」次の瞬間、

 

「たまたま」

 

ほんとうに「たまたま」、

 

暁の明星がまたたいていたり、

 

カラスが鳴いていたり、

 

梅の花が香っていたりしていただけで、

 

決してそれ自体が「直接的な要因」となった、というわけではない。

 

 

 

というか、「さとり」自体、因果関係を

 

遥かに超えてしまったところに起こってくるものなので、

 

「要因」とか、そんなのは、後付けに過ぎないんじゃないかな、と。

 

 

 

「さとり」っていうのは、つまり、

 

完全に、「いま」とともにある瞬間のことだと思うんです。

 

 

 

それはつまり、

 

「まったくあたらしい“わたし”」として、

 

「まったくあたらしい“世界”」と出会った、

 

その瞬間のこと、なんじゃないかな。

 

 

 

「いま」と出会う準備ができた人は、

 

その瞬間に、

 

意味も因果も時間も距離も超えたところで、

 

「生まれてはじめて」“世界”と出会えるのだと思う。

 

 

 

たとえばお釈迦さまだったら、

 

その瞬間、

 

「生まれてはじめて」暁の明星を見たのだろうし、

 

たとえば一休さんだったら、

 

その瞬間、

 

「生まれてはじめて」カラスの声を聞いたのだろうし、

 

たとえば盤珪さんだったら、

 

その瞬間、

 

「生まれてはじめて」梅の香りを嗅いだ……

 

そういうことなんじゃないかな、と。

 

 

 

私たちは、1秒間に75回生まれ変わっているらしいですよ。

 

過去記事参照

 

ほんとうは、いつだって、

 

「まったくあたらしい“わたし”」として、

 

「まったくあたらしい“世界”」に、出会えるのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

あたらしい“世界”を、生きていきましょう!