すべて、等しく、愛おしい「わたし」

2015年9月2日

「私」はいない。すべては「わたし」。

 

「いま・ここ」において、すべてとしての「わたし」が、

 

一瞬ごとにあらわれては消え、消えてはあらわれを繰り返して……

 

ただただ、そのようにして“ある”だけ。

 

ただ、それだけ。

 

 

 

 

 

……なんてことを言うと、

 

「え!? “感情”が消えちゃうってこと!?」

 

と思われる方もいらっしゃるとは思いますが、

 

それは誤解です。

 

 

 

「わかっちゃった」ような人たちは、

 

決して怒らず、いつだって穏やかで、

 

口元には常にやさしげな微笑みをたたえている……

 

なんて、はっきり言って、ものすご~~~く勝手なイメージです。

 

 

 

「いま・ここ」においても、怒りや悲しみなどのネガティブな感情は、

 

以前とまったく同じように浮かんできます。

 

「いま・ここ」には、ありとあらゆる感情が浮かんでくる可能性があります。

 

でも、それは単に、「いま・ここ」に「浮かんでいる」だけなんです。

 

その感情を所有する「私」がいないのだから当然です。

 

 

 

「私」の怒り、「私」の悲しみ、といったように、

 

感情を個人として所有してしまうようなことをしなければ、

 

それらは浮かんできた時と同様、ごくごく勝手に消えていきます。

 

 

 

「いま・ここ」においては、

 

ネガティブな感情すらも、

 

すべてとしての「わたし」の一瞬のあらわれに過ぎないのです。

 

 

 

すべてのあらわれを、

 

「いま・ここ」において、

 

「いま・ここ」として“見る”

 

すべてとしての「わたし」は、

 

すべてを「自分のもの」にしようとする

 

個としての「私」ではないがゆえに、

 

目の前のあらわれごとに「差」をつけるようなことをしません。

 

 

 

ポジティブな感情も、ネガティブな感情も、

 

「いま・ここ」の「わたし」においては、

 

まったく等しく、「愛」のあらわれです。

 

 

 

すべて、等しく、愛おしい「わたし」です。

 

 

 

 

 

 

 

よき日を。