無方:「今、ここ」の話になりますが、自分が今、生きている、しかしそれは生命の一瞬でしかない。この一瞬のほかに、生命はないと言えると思います。ですから私が今、息をしている、この一呼吸……この一呼吸が「すべて」と言ってもいいでしょう。この一呼吸ですべてが完結しているということでしょう。
道元禅師は、『正法眼蔵』の「発菩提心」という巻の中で、そういう時間論を展開しているんです。一日のうちに何回この宇宙が滅しているのか――道元禅師はそこで計算違いをして、結果的にその数を千倍にも膨らませてしまうのですが、仏教の伝承通り正しく計算したら一秒に七十五回、自分も宇宙も生滅しているのです。それに気づかないだけなのです。ですからこうして話している間にも、一照さんも私も何回も何回も死んで、また生まれ変わっているわけです。
(中略)
過去によって今の自分が影響されるのは確かだけれども、道元禅師はそこで、刹那生滅の理論をもち出していますね。気づいても気づいていなくても一秒のうちに七十五回自分は生まれ変わるのだから、今からでも自分を変えようと思ったら変えられるという。そういう思いがあって、「発菩提心」の中で仏教の時間論の話が出てくると思うのです。
(『安泰寺禅僧対談』 藤田一照・ネルケ無方=著 佼成出版社=刊 より抜粋)
先日、夫が、数字の単位を、唐突に、すべて、お経のごとく朗々と、しかもそらで読み上げたので
仰天&爆笑してしまったのですが、
しかし、日本語の単位って語感がうつくしいものが多いですね~。
1……………=一(いち)
10…………=十(じゅう)
10の2乗…=百(ひゃく)
10の3乗…=千(せん)
10の4乗…=万(まん)
10の8乗…=億(おく)
10の12乗=兆(ちょう)
10の16乗=京(けい)
10の20乗=垓(がい)
10の24乗=秭(じょorし)
10の28乗=穣(じょう)
10の32乗=溝(こう)
10の36乗=澗(かん)
10の40乗=正(せい)
10の44乗=載(さい)
10の48乗=極(ごく)
10の52乗=恒河沙(ごうがしゃ)
10の56乗=阿僧祇(あそうぎ)
10の60乗=那由多(なゆた)
10の64乗=不可思議(ふかしぎ)
10の68乗=無量大数(むりょうたいすう)
10の-1乗…=分(ぶ)
10の-2乗…=厘(りん)
10の-3乗…=毛(もう)
10の-4乗…=糸(し)
10の-5乗…=忽(こつ)
10の-6乗…=微(び)
10の-7乗…=繊(せん)
10の-8乗…=沙(しゃ)
10の-9乗…=塵(じん)
10の-10乗=埃(あい)
10の-11乗=渺(びょう)
10の-12乗=漠(ばく)
10の-13乗=模糊(もこ)
10の-14乗=逡巡(しゅんじゅん)
10の-15乗=須臾(しゅゆ)
10の-16乗=瞬息(しゅんそく)
10の-17乗=弾指(だんし)
10の-18乗=刹那(せつな)
10の-19乗=六徳(りっとく)
10の-20乗=空虚(くうきょ)
10の-21乗=清浄(せいじょう)
後半なんか、ほんと、そのまま、まるっきりお経ですね。
仏教語のオンパレード。
こんな単位、いったいどこで使うのよ……!?
と、思っていたら……
10の-18乗=刹那(せつな)
「刹那」って、割とふつうに使いますね。
私、いままで、なにも考えずに、それが具体的にどんな数値であるのかも知らずに、
「一瞬」とか「瞬間」とかいう意味のことばとして使っていましたが……。
ふーん、そうなんだ。
「刹那」って、10のマイナス18乗なんだ……。
……。
……。
……。
……ごめんなさい。
いままで全力で数字から逃げ回ってきた人生なので、
10のマイナス18乗っていうのが、いったいどんな数字であるのかが、
本当に、さっぱりわからないのですが、
でも、冒頭に挙げた本によると、
(というか、道元さんによると? ネルケ無方さんによると?)
1刹那=75分の1秒……っていうことでいいのかな???
(ここら辺になると、もはや数学ではなく、国語の問題のような気も……!)
まあ、75分の1秒、と言われたところで、
なんの実感も湧かないのが正直なところですが、
でも、
「人は1秒に75回生まれ変わる!」
と言われたら、
なんとなく、
「おお……!!!」ってなりませんか?
まあ、その75回、っていう具体的な数値が本当に正確なものなのかどうかは、
私なんかには、たぶん、一生かかっても理解できないところだとは思うのですが、
でも、直感として、
「そういうことはあるだろうな~」
と思うのです。
この「私」(個の「私」)に実体はなくて、
すべて、「縁」によって、瞬間ごとに生じては滅し、滅しては生じ……を繰り返しているだけ。
継続的な「私」なんて、実は自分の思考の中にしか存在できないんです。
実際には、「いま・ここ」しかない。
「過去」から一続きとなった「私」が存在しているような気がするのは、
“「過去」から一続きとなった「私」”という想念が、
一刹那ごとに、「いま・ここ」で湧いているから。
「未来」だって同じです。
それらに実体はない。
これを逆から言えば……
75分の1秒に1回ずつ、私たちは、違う「過去」や「未来」を選べる可能性がある!
ということですね。
まあ、実際、「選べる」のかどうか、人間に自由意思はあるのかどうか、という問題はあるとして、
でも、この、
「人は1秒に75回生まれ変わる!」
というのは、
なんというか、
「希望」そのもの、なのではないかな、
なんていう風に思います。
「いま・ここ」に徹し切ったとき、そこには光だけがある――
うまくまとまらないけれど……。
そこに「ほんとう」がある気がするのです。
今朝の東京には、秋の風が吹いています。
季節も、なにもかも、「ひさしくとどまりたるためしなし」ですね。
よき日をお過ごしください。