昨日の続きです。
世の中に存在するもの、すべて、
みんな、もれなく、「菩薩」なんだ、
というお話ですね。
「かたち以前、ことば以前に、ただ“在る”もの」=「真理」=「如来」
その、「真理」そのものとしての「如来」が、
「かたち」や「ことば」を持った“なにか”が、
そのまま「菩薩」である、と、私は考えます。
つまり、私たち人間も含め、この世にあらわれ出ているすべては、
ほんとうに、もれなく、「すべて」が、菩薩さま、ということになるんですね。
人間で言えば、
どんな見た目をしていたって、
どんなことばを用いていたって、
どんな振る舞いをしていたって、
もれなく、全員、菩薩さま、なんです。
聖人だろうが犯罪者だろうが、そこに一切「差」はなくて、
ほんとうは、みんな、
如来成分100パーセントの菩薩さまであるわけです。
昨日の記事の冒頭で引用した本にも書いてありましたが、
菩薩は、ほんとうは、いつだって「仏」(=如来)になれるわけです。
というか、そもそも菩薩は、「如来」と呼ばれるなにかがかたちをとったものであるわけで、
本来的にはそこに区別はないのですね。
「如来即菩薩」「菩薩即如来」というか……。
でも、菩薩は、あえて如来にならずに、
いや、「ならずに」というか、「戻らずに」という方が正確かな……
まあ、とにかく、菩薩というのは、
「あえて」
自らをその位置にとどめおいている存在なんですね。
それは、そのまま、「修行」ですよね。
ほんとうは、いつでも、一切の「苦」のない世界=「仏」の世界に行けるのに、
あえてこちらにとどまって、そういったものを我が身に引き受けて生きている……。
そう考えると、菩薩をやっている自分たちが愛おしくなりませんか?
あえて、「苦」を引き受けて、全力でそれを味わっているなんて……。
いや、ほんと、見上げたもんですよ、私たち全員。
……まあ、そんなこと言ったって、
「自分が如来成分100パーセントの菩薩だなんて信じられないんだけど!?」
「ていうか、はっきり言って、“苦”なんか1ミリも引き受けたくないんですけど!?」
という反応が起こるのが通常だとは思うのですが……。
でも、
「ほんとうは自分は如来なんだ」「あえて菩薩をやっているんだ」
ということを知って生きると、そこに余裕は生まれてきますよね。
だから、たとえ、「苦」的なものがやってきても、
なんというか、「ウェルカム!」じゃないけれど、
「これを味わうために自分は菩薩をやっているんだな~」という認識をもって、
どこか「遊び」の気分で、でも真剣に目の前のことに取り組めるというか。
すべては存在それ自体の「遊び」だとわかっているからこそ、真剣になれるというか。
修行は修行でも、苦しい修行じゃなくて、楽しい修行になるんですね。
みんなが、「ほんとうの自分」「ほんとうのいのち」を思い出したら、
この世から“苦”はなくなります。
それを“苦”と認識する主体がいなくなるのだから当然です。
楽しく生きていきましょう。
私たち、ほんとうは、みんな、もれなく、仏さまなのだから。