ところで、大乗仏教になりますと、菩薩が難行苦行するということがしきりに言われるようになります。これは、自分が覚りを得るために難行苦行しているわけではないのです。たとえば『八千頌般若経』などを見ますと、次のように説かれています。
―菩薩大士とは、難行の行者である。空性の道を追究し、空性によって時を過ごし、空性の精神集中に入りながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士は最高の難行の行者である。それはなぜかというのは、スブーティよ、菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにはいかないからである。彼には、あらゆる有情を解放しなければならないという、こういう性質のもろもろの誓願があるのである。(『大乗仏典』3、八千頌般若経2、175頁)―
菩薩の難行といえば、ともすると、自分が覚りを開くそのために難行していると受け取られますが、自らが仏となるために難行するという発想は、大乗仏教が批判している阿毘達磨仏教において成立したものです。そのことについては、後に詳しく触れたいと思いますが、大乗仏教においては、菩薩はいつでも仏になれるのです。菩薩にとってすでに真実は明らかなのですが、その真実を一切の人々に知らしめんがために難行しているのです。
ですから、自分はいつでも仏になれるのだけれども、一切の人々、生きとし生けるものが仏にならない間は自分は仏にならないといった誓願が、大乗の菩薩の基本的な在り方なのです。
(『大乗仏教の根本思想』 小川一乗=著 法蔵館=刊 より抜粋)
ライトな仏教入門書のようなものを読むと、たいていそこにはピラミッド型の図式が載っています。
てっぺんが如来、その次の層が菩薩、その次が明王、その次が天部……という、アレですね。
これ、まあ、確かに、とっても分かりやすい図解ではあるし、
私自身も、仏教の大枠を理解するときに、この図をかなり役立てていましたが、
ちょっと気をつけないと、要らない誤解も生まれてしまうんじゃないかな~と思っていて。
だって、如来だろうが菩薩だろうが明王だろうが、「仏」は「仏」なわけで、
そこに、本来、ヒエラルキーもへったくれもないだろう、と思うわけです。
如来の方が、菩薩より偉い、とか、
菩薩は如来よりも格下の存在だ、とか、
そんなこと、あるわけないじゃ~~~ん! なんて思ってしまうんですね。
如来は、サンスクリット語で、「タターガタ」と呼ばれるそうです。
意味としては「真理より来(きた)る者」。
または、「真理を体現した者」と言われています。
じゃあ、その「真理」っていったいなんなのさ!? ということになりますが、
これは、まあ、ざっくり言ってしまえば、
「かたち以前、ことば以前に、ただ“在る”もの」
ということになるのではないでしょうか。
あってない、なくてある、
あるというかたちでない、ないというかたちである、
ただただ、「いま・ここ」に“在る”「これ」、
「すべて」であり「ひとつ」である「これ」、
「ひとつ」であり「すべて」である「これ」、
「真理」とは、「いま・ここ」に“在る”「これ」、そのもののことだと思うのですね。
すべての“かたち”としてのあらわれは、
「真理」、つまり、「いま・ここ」の「これ」から生じます。
これはもう、もれなく、「すべて」のあらわれに対して言えることです。
ここでもう一度確認しますが、
如来は、「真理を体現した者」という意味でしたよね?
これ、言いかえれば、「如来」は、「真理」そのもの、ということにはならないでしょうか。
つまり、「如来」とは、もはや“かたち”を持った存在ではない、ということです。
乱暴にまとめてしまえば、
「かたち以前、ことば以前に、ただ“在る”もの」=「真理」=「如来」
ということになります。
世の中のすべては、大元の「真理」が、なんらかの“かたち”をもってあらわれ出たもの。
つまり、この世界のすべては、実は、「如来」そのものである、ということです。
いや、「そのもの」とかいうと、少し語弊があるのですが……
かと言って「化身」というのも、また少しニュアンスが違ってくるし……
うーん……
まあ、でも、つまりは、そんなところでしょう。(諦めた! 適当すぎる!)
で。
これを前提として世の中を眺め渡してみると……
なんというか、この世には、ほんとうに、「菩薩」しかいないなあ……と。
ほんとうに、みんな、みんな、仏さまだなあ……と。
そんなことを思って、しみじみとしてしまいます。
どういうことか、と言いますと……
と……
と……
ごめんなさい!
長くなってきたので、続きはまた明日にします!!!
今朝の東京は、雨。
よい一日をお過ごしくださいね。