東京タワーの展望台からは、東京タワー自身の姿は見えないように、
スカイツリーの展望台からは、スカイツリー自身の姿は見えないように、
私自身の「しあわせ」は、私が“私”である限り、決して見えないものなのかもしれません。
なんというパラドクス。
すでに「それ」そのものであるのに、“私”自身はそれを知ることがないだなんて。
でも、ただひとつ、(アクロバティックな)抜け道があります。
私が、“私”から、自由になることです。
“私”を超えたところに在る“わたし”を、“わたし”自身が発見したとき、
「しあわせ」以外のものは、そもそも、存在すらしていなかったことに気づくのです。
“私”から“わたし”へとトランスフォームするには、
“私”の不在を見抜くこと。
ただ、それだけです。
「いま・ここ」に、ただ、あってみてください。
“私”は、ほんとうに実在しているでしょうか。
“私”を超えたところに、ただ「ある」“なにか”に気づいたとき、
ずっとずっと求めていたものは、すでに与えられていたことが分かるのです。
どうか、よき日を。