東京に帰る日の夕方、僕はスーツ・ケースを抱えたまま「ジェイズ・バー」に顔を出した。まだ開店してはいなかったが、ジェイは僕を中に入れてビールを出してくれた。
「今夜バスで帰るよ。」
ジェイはフライド・ポテトにするための芋をむきながら何度か肯いた。
「あんたが居なくなると寂しいよ。猿のコンビも解消だね。」ジェイはカウンターの上にかかった版画を指さしてそう言った。「鼠もきっと寂しがる。」
「うん。」
「東京は楽しいかね。」
「どこだって同じさ。」
「だろうね。あたしは東京オリンピックの年以来一度もこの街を出たことがないんだ。」
「この街は好き?」
「あんたも言ったよ。どこでも同じってさ。」
「うん。」
「でも何年か経ったら一度中国に帰ってみたいね。一度も行ったことはないけどね。……港に行って船を見る度そう思うよ。」
「僕の叔父さんは中国で死んだんだ。」
「そう……。いろんな人間が死んだものね。でもみんな兄弟さ。」
(村上春樹著 『風の歌を聴け』 講談社文庫 より抜粋)
毎年夏になると、「もういいでしょ!」っていうぐらい、繰り返し読んでしまう本っていうのがあって、
それが、この村上春樹氏の『風の歌を聴け』なんですよね。
もう、累計100回は読んだ気がするのに、
全ページの全セリフを超正確に暗記してしまうぐらい読み込んでいるのに、
毎年、暑くなってくると、ほとんど条件反射のようにして、
本棚に並んでいるこの文庫本を手にして、熱心に読み始めてしまうのですよね……。
なにがそんなに好きなのか、どうしてもことばにはできないのですが……
なにか、夏の心象にしっくり馴染むものがあるのでしょうね。
ちなみに、冬には、トーベ・ヤンソン氏の『ムーミン谷の冬』を、ページが擦り切れるほどに、繰り返し読みます。
これ、いったいなんなんだろ~。
自分でも、謎です。
まあ、それはともかくとして……。
なんというか、
つれづれと思うに、
ほんとうに、
いつだって、
どこだって、
そのままに、
まったくそのままに、
「いま」「ここ」
なんだよなあ……
それしかないんだよなあ……
と。
しみじみと、実感しています。
って、いきなりいつもの小出風味な文章になって恐縮ですが。
最初にこの本と出会ったのは、高校生のときでした。
大学時代、暇に任せて、幾度も幾度もこの本を読み返しました。
社会人になって多少忙しくなってからも、この本を繰り返し読むという習慣は消えませんでした。
そのときどきの私の住んでいた部屋で読んでいたのはもちろん、
高校の教室でも読んだし、大学の中庭でも読んだし、
バイト先の休憩室でも読んだし、会社のデスクでも読んだし、
電車でも読んだし、飛行機でも読んだし、
帰省中に実家でも読んだし、旅先のホテルでも読んだし、
まあ、いろんなときに、いろんな場所で、この本を読み続けてきたわけです。
でも、
時間も、場所も、そのときの私の心情も、それぞれにまったく違うけれど、
それでも、
「読む」ということが起こっているのは、
いつだって、どこだって、
まったく変わらず、
「いま」「ここ」
なんですね。
「いま」「ここ」以外で、この本を読んだことなんか、一度だってなかったんです。
高校時代の「いま」「ここ」と、
大学時代の「いま」「ここ」と、
社会人になってからの「いま」「ここ」と、
新潟の片田舎での「いま」「ここ」と、
大都会東京での「いま」「ここ」と、
世界各地での「いま」「ここ」と……
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、
まったく同じ、
「いま」「ここ」
なんです。
「いま」「ここ」以外で本を読んだことはないし、
「いま」「ここ」以外で食事をしたことはないし、
「いま」「ここ」以外で仕事をしたことはないし、
「いま」「ここ」以外で起きたことはないし、
「いま」「ここ」以外で寝たことはないし、
「いま」「ここ」以外で誰かと会ったことはないし、
「いま」「ここ」以外で誰かと話したことはないし、
「いま」「ここ」以外で誰かと喧嘩したことはないし、
「いま」「ここ」以外で笑ったことはないし、
「いま」「ここ」以外で泣いたことはないし、
「いま」「ここ」以外で怒ったことはないし、
「いま」「ここ」以外でくしゃみをしたことはない。
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、
「いま」「ここ」
で、起こっているんです。
それぞれの「いま」「ここ」は、
まったく同じ、「ひとつ」です。
いつだって、どこだって、「いま」「ここ」さ。
なにも変わりゃしない。
(……春樹風に締めてみた!)
みなさん、どうか、よい夏を。