ほんとうの満足について。

2015年7月18日

「こうありたい」を、自分のど真ん中にばしっと置いておけば大丈夫!

 

といったような記事を、ここ最近、連続して書きました。

 

 

 

◎いまこそ、「こうありたい」を。 http://koideyoko.com/archives/5981

 

◎「こうなりたい」より「こうありたい」を。 http://koideyoko.com/archives/5923

 

 

 

これに関して、友人からこんな声を聞きました。

 

「“こうありたい”を考えていても、いつの間にか、“こうなりたい”の方にすり替わっちゃうんだけど……」

 

ふむ……。

 

ということで、今日はそれについて書きます。

 

 

 

と言っても、なにも大げさな話じゃない。

 

この問題を解決するのは実は簡単で。

 

単に、「こうなりたい」の先にあるものを見つめればいいだけなんです。

 

そこには、かならず「こうありたい」があるはずだから。

 

 

 

具体的には……

 

「こうなりたい」という個別具体的な願望が叶えられたときに、

 

自分は、いったい、どんな気分になるだろうか、というところを追っていくんです。

 

そこに、「こうありたい」が見えてきます。

 

 

 

実際にやってみるとすぐに気づくと思うのですが、

 

どんなにバリエーション豊かな「こうなりたい」を並べたところで、

 

最後には、かならず、たったひとつの「こうありたい」に辿り着くんですよね。

 

 

 

これ、考えてみれば当たり前の話で。

 

そもそも、すべての願望は、「こうありたい」を母体として発生するんです。

 

「こうありたい」が先にあって、それを満たすために、数々の「こうなりたい」が生まれてくる。

 

これが「自然」な流れです。

 

 

 

でも、どうしても、私たちは、「こうなりたい」の方に気を持っていかれがちなんですよね。

 

だって、「こうありたい」って、ものすごく地味なんです。

 

「動」か「静」かでいったら、完全に「静」。

 

それに比べて「こうなりたい」は派手です。

 

目に見える結果としてあらわれやすいし、夢中になってしまう気持ちもわかります。

 

 

 

でも、自分のほんとうの望みは、実は、「こうありたい」の方にこそあって、

 

「こうなりたい」は、すべて、それを満たすための手段にすぎない。

 

そのことを抑えておかないと、目の前のことに翻弄されるだけで、

 

結局、いつまで経っても、満たされない気持ちを抱えたままで生きることになってしまうのではないかな。

 

そんなことを思うのです。

 

 

 

しつこいぐらいに言うけれど、大事なのは「こうありたい」の方です。

 

それさえ自覚できたら、もう、大丈夫です。

 

 

 

 

 

台風は熱帯低気圧に変わったようですね。

 

よい一日をお過ごしください。