拈華微笑(ねんげみしょう)

2015年7月17日

【拈華微笑(ねんげみしょう)】

 

[仏]禅宗で、以心伝心・教外別伝の法系を主張するのに用いる語。霊鷲山(りょうじゅせん)で説法した釈尊が、華(はな)を拈(つま)んで大衆に示した時、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意を悟って微笑し、それによって、正しい法は迦葉に伝えられたという。

 

(広辞苑第六版より)

 

 

 

 

 

拈華微笑。

 

長年、ず~~~っと、この話の意味がわからなかったんです。

 

お釈迦さまは、「華(はな)を拈(つま)」むことによって、いったいなにを示されようとしたのか?

 

迦葉さんはいったいなにを悟ったのか?

 

ぜんぜん、まったく、さっぱり、わからなかった。

 

でも。

 

今朝。

 

まさに、今朝です(笑)

 

ふいに、「あ、こういうこと!?」とハラ落ちするものがあったので、

 

今日はそれを書いてみようと思います。

 

 

 

私は、ずっと、華をつまむ、その行為自体に意味があるものだと思っていたんです。

 

でも、たぶん、それ自体に、意味は、ない。(がーん!)

 

「拈華微笑」のエピソードで大事なのは、

 

お釈迦さまが「拈華」された瞬間に、迦葉さんがなにかを悟って「微笑」した、

 

その事実、そのものの方にあるんじゃないかな、と。

 

 

 

たぶん、なんでもよかったんです。

 

華をつまむ、とかじゃなくても……

 

たとえば、地面を這う一匹の虫の姿を指差す、とか、

 

近くの樹にとまっていた鳥の鳴き声に耳をすます、とか、

 

あるいは、遠くの方から漂ってくるたき火の煙の匂いをじっと味わう、とか。

 

そういうのでもよかった。

 

「準備ができた人」(=迦葉さん)にとっては、

 

ほんとうに、なんでもよかったんだと思う。

 

 

 

お釈迦さまが華をつまんだから、迦葉さんが悟った、

 

というわけじゃなくて、

 

お釈迦さまが華をつまんだ瞬間に、「たまたま」迦葉さんが悟った、

 

そっちが正解なんじゃないかな。

 

 

 

迦葉さんの「悟り」の内実は、

 

ぜったいに言語化できないものだとは思うし、

 

文字にするのは無粋の極みだということは承知の上で、

 

それでも、あえて表すとしたら、

 

「この世はすべて、意味なんかない」

 

ということだと思うんです。

 

 

 

「この世はすべて、意味なんかない」

 

その究極的な真実に、迦葉さんは、たまたま、

 

お釈迦さまが華をつまんだ瞬間に気づいてしまった。

 

華をつまむ、というお釈迦さまの行為の「意味のなさ」が、迦葉さんの目を開かせた。

 

というか、迦葉さんの目が開いた瞬間、

 

たまたま、お釈迦さまが、華をつまむ、という「意味のない」行為をしていた。

 

その「意味のなさ」が「すべて」に広がって、

 

「ああ、なんだ、そもそも、すべてに意味なんかなかったじゃないか」と。

 

「一切の意味の脱落した世界」=「悟りの世界」を目の当たりにして、

 

迦葉さんは思わず「微笑」した、と。

 

そういうお話なんじゃないかなあ。

 

 

 

この世のすべてに意味なんかない。

 

ほんとうに、ないんです。

 

でも、私たちは、どうしても、そこに、なんらかの意味を見出そうとしてしまう。

 

そうして、意味の世界に埋没していってしまう。

 

 

 

でも、もともとすべてに意味はなくて、

 

その「意味のなさ」っていうのは、実はいつでもそれとしてあって、

 

私たちに見出されるのを、いつだってじっと待っているものだと思うんです。

 

 

 

「意味のなさ」は、ほんとうは、いつだって私たちに開かれている。

 

だって、そもそも、すべては「それ」なのだから。

 

準備ができた人、つまり、その“意味のなさ”を「そのまま」受けいれよう、という覚悟ができた人から、

 

「一切の意味の脱落した世界」=「悟りの世界」を見出す、

 

そのきっかけをつかんでいくものなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

うまくことばにできた気がしませんが(すみません……)

 

とりあえず、今朝の気づきをそのまま書いてみました。

 

またチャレンジします。

 

 

 

 

 

すべて、意味なんかない。

 

あんまり深刻にならずに、微笑を浮かべて生きていきましょう。