シャボン玉がはじけたら

2015年7月13日

「“私”なんかいなかった!」という気づきと、

 

「すべては“わたし”だった!」という気づきは、

 

いつだってセットです。

 

 

 

「すべては“わたし”だった!」などと聞くと、どうしても、

 

世界中に「この」“私”の分身が存在している、

 

といったようなイメージを持ってしまいがちだと思うのですが、

 

それは違います。

 

“私”(個別の意識、個別の肉体を持った「この」“私”のこと)がなりをひそめないことには、

 

「すべては“わたし”だった!」という気づきに至ることはできないんです。

 

 

 

反対から言えば、

 

「すべては“わたし”だった!」

 

の前には、必ず、

 

「“私”なんかいなかった!」

 

という気づきがなければならない、ということです。

 

(「前には」と言うか、実際には、それらの気づきは、まったく同時に起きてくるので、

 

やっぱり「セット」という表現が正確ですね。)

 

 

 

なにもない空間に、無数のシャボン玉が浮かんでいる様子をイメージしてみてください。

 

私たち人間ひとりひとりは、一個一個のシャボン玉に当たります。

 

みな、一個のシャボン玉こそが、“私”であると思いこんで生きています。

 

一個のシャボン玉として、

 

「“私”の方が大きい」とか「“私”の方が美しい」とか

 

「“私”の方が高く飛べる」とか「“私”の方が早く飛べる」とか

 

そんなことを激しく言い合って、必死に競い合いながら生きています。

 

でも、シャボン玉は、シャボン玉であるがゆえに、いつか、はじけます。

 

「ぱん!」とはじけた瞬間になにが起こるのか。

 

「なにもない空間」=「すべて」が“わたし”になるのです。

 

「なにもない空間」=「すべて」こそが、ほんとうの“わたし”であったことに気づくのです。

 

 

 

「なにもない」、けれど、それは決してさみしい空間ではありません。

 

「なにもない」ということは、つまり、「ぜんぶある」ということだからです。

 

なくてある。ないからこそある。ないというかたちである。

 

まるごと「ない」し、まるごと「ある」。

 

その“まるごと”こそが、ほんとうの“わたし”です。

 

 

 

「“私”なんかいなかった!」

 

「すべては“わたし”だった!」

 

このセットの気づきから、ほんとうの自由ははじまっていきます。

 

 

 

 

 

今朝の東京の空には不思議な明るさがあります。

 

自由を、生きていきましょう。