「“私”なんかいなかった!」
という気づきは、そのまま、
「ぜんぶ“わたし”だった!」
という気づきになります。
そこには、「救い」の主体としての“私”も、対象としての“あなた”もおらず、
ただただ“わたし”だけが広がっている……という世界なのです。
なのに、どうして、いま、このメッセージを「伝えよう」とする人たちが(私も含め)たくさんたくさん出てきているのか。
“私”も“あなた”もいないのに、どうして「救い」が成り立つのか、
という疑問について、今日は書いてみようと思います。
これね……。ひとことであらわせば、
「そうなっているから」
と、そんな風に言うことしかできないのですよね。
でも、だからと言って、決して「運命決定論」とか、そういうのではないのです。
ただただ、すべては、「いま」「ここ」で、
まあ、仏教のことばで言えば「縁」によって、
生じては滅し、滅しては生じ……
それを繰り返しているだけのものであり、
それはただただ「あるがままに」あるだけのものであり、
その中には、見かけ上の「私」や「あなた」もすべて含まれていて、
そこでなにを言おうが、どう動こうが、
すべては「そうなっている」から「そう言っている」「そう動いている」。
ただ、それだけのものであり……。
いや、ごめんなさい、昨日大風呂敷広げたは良いけれど、
やっぱり、なかなか難しいですね。
ことばにしてしまえば単純なんですけれど、単純さゆえに理解しづらい表現になってしまうというか。
「ぜんぶ“わたし”だった!」
の気づきを生きている人は、
見かけ上、“私”と“あなた”とが分かれたような世界にいても、
「すべては、ただ、起きているだけ」という意識状態にあります。
いや、「意識」とか言うと、「それは誰の意識ですか?」というお話しになってしまって、
ここもまた表現が難しいところなのですが、
とにかく、彼らの意識には、
それをしている“私”はおらず、
さらに、
それをもって働きかける対象としての“あなた”もおらず、
ただただ巨大な“わたし”として、
見かけ上の「私」や「あなた」が「そのように動いている」だけなのです。
「そのように動く」ことをひっくるめての「わたし」がある、「わたし」だけがある、という感じ。
……伝わっておりますでしょうか。
「すべては、ただ、そのようにある」
その気づきを生きている人に、「深刻さ」は生まれません。
昨日は「救い」という表現を使ったけれど、
ほんとうに気づきを生きている人ならば、
いくら熱心に「救い」ととれるような行動をとっていたとしても、
そこに「悲壮感」は一切漂わないはずなんです。
だって、それをやっている“私”も、それを受け取る“あなた”も、
実はどこにも存在しないという気づきの上でやっているから。
ただ、すべては、「そうなっている」。
だから、見かけ上、「それをやっている」。
ただ、それだけ。
それだけだから、深刻にならず、でも、真剣に、すべてに向き合える。
そんな感じかな。
「“私”も“あなた”もいない」
それを知ったからと言って、
「なにもしない」
ということにはならないんです。
なぜなら“私”や“あなた”という見かけ上の区別を超えたところの“わたし”は、
“私”や“あなた”が「なにかをする」ことすらすべてひっくるめたところに
ただただ、それとして「ある」だけのものなのだから。
それをしよう、でもなく、それをしたい、でもなく、
ただただ、「そうなっている」、だからする、それだけ。
それは「救い」も同じです。
救おう、でもなく、救いたい、でもなく、
ただただ、そうなっている、だからする。
「救い」という意識すらなく、する。
それだけ。
理由なんてぜんぶ「後付け」です。
すべては、ただただ、「そうなっている」だけ。
それだけ。
ほんとうに、それだけなんです。
東京は昨日に引き続き良いお天気です。
人生に深刻さは要りません。
だって、すべては、「そのようにある」だけなのだから。
よき日を。