救いのパラドクス その1

2015年7月11日

「“私”なんか、実はどこにもいなかった!」

 

「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、“わたし”だった!」

 

この気づきが訪れるところにこそ、ほんとうの救いがあるのだと思います。

 

だって、すべての苦しみは、「“私”が存在する」というフィクションを母体として生まれてくるのだから。

 

“私”という名のフィクションを超えたところにある、

 

なくてある、ないからこそある、ないというかたちである、

 

果てしなく巨大な“わたし”に出会うことができた瞬間、

 

すべてはこのままで、完全に、完璧なのだということが、

 

理屈を超えたところから理解できるのです。

 

 

 

「“私”なんか、実はどこにもいなかった!」

 

「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、“わたし”だった!」

 

このメッセージは、以前は一部の「覚者」と呼ばれる人々だけが伝えていたものでした。

 

気づき自体が、特別視されていたのです。

 

 

 

でも、この気づきは、実はなにも特別なものじゃなくて、

 

実は、日常的に、その機会は訪れているはずなんです。

 

どんな人にだって。

 

そのことが明かされはじめている(バラされはじめている?)のが、いまという時代に起きていることなのだと思う。

 

でも、本人の状態が整っていないと、つまりその気づきを気づきとして認識できる状態になっていないと、

 

それは、残念ながらキャッチされることなく、スルーされてしまいます。

 

 

 

気づきは起こってくるものであり、人為的に起こすことはできないと思います。

 

でも、その準備をすることはできるでしょう。

 

よく使われるたとえで言えば、眠りという現象は自分で起こすことはできないけれど、

 

寝具をのべて、電気を消して、身体を横たえて……等、眠りを迎えるための準備はできる。

 

いま、少し前には考えられなかったほど多くの人たちが、

 

「“私”なんか、実はどこにもいなかった!」

 

「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、“わたし”だった!」

 

というメッセージを伝えはじめています。

 

これらのメッセージを聞いたからといって、即座に気づきが訪れることはないでしょうけれど、

 

でも、少なくとも、それを聞くことによって、気づきやすい状態に自らを整えることはできるでしょう。

 

彼らがやろうとしているのは、誰かの気づきへの準備を整えること、それだけです。

 

それだけだけど、それは、そのまま、「救済活動」と呼べるのではないでしょうか。

 

 

 

……と、ここで矛盾が出てきます。

 

「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、“わたし”だった!」

 

のなら、ほんとうは、「救うべき誰か」なんて、存在できようはずがないのです。

 

だって、“わたし”の世界では、ぜんぶが“わたし”であるがゆえに、

 

救いの主体としての「私」も、救いの対象としての「あなた」もいなくなっているはずなのだから。

 

 

 

それなのに、彼らがメッセージを伝えつづけるのをやめないのはどうしてか?

 

疑問が出てくるのも当然です。

 

 

 

……これに関しては、長くなってきたので、また明日、続きを書きますね。

 

 

 

良い一日を!