欠乏感の発生源

2015年7月8日

「ほんとうの自由」というのは、

 

「ほんとうの自分」の正体を知ることでしか得られないのだと思っています。

 

 

 

現代を語る上で、「依存」というのはひとつの外せないキーワードになってくると思うのです。

 

みんながみんな、いろ~んなものに、淡く、濃く、依存しまくりです。

 

いま起こっている数々の問題の根っこには、かならず「依存」というものが潜んでいるように思います。

 

 

 

人がなぜ依存に走ってしまうのかと言えば、ひとこと、

 

「自分というものに自信が持てないから」

 

ということになるのでしょう。

 

 

 

常に自分の中になんらかの欠如を感じていて、

 

それを満たさんがために、

 

欠乏感がもたらす不快感から逃れんがために、

 

「外側」のなにかをむさぼるように求めてしまう。

 

 

 

でも、この方法では、いつまで経っても満たされません。

 

だって、そもそもの前提が間違っているのだから。

 

 

 

「自分は、本当に、なにかが欠けている存在なのだろうか?」

 

そこを、まずは疑ってみないと。

 

 

 

目を向けるべきは、「外側」ではなく、「内側」です。

 

まずは、自分を見つめてみること。

 

「外側」に逃げずに、とにかく、「内側」を見つめてみること。

 

とくに、欠乏感の周辺を見つめてみること。

 

怖くても、苦しくても、見つめ続けてみること。

 

ヒントは、そこにしかないのだから。

 

 

 

なにが、この果てしない欠乏感を生み出しているのか?

 

逃げずに見つめ続けた先に、ひとつの光が見えてきます。

 

その光を、ことばに変えるとこんな感じになります。

 

 

 

「私」という名の幻想こそが、果てしない「欠乏感」の発生源だったのだ……!

 

 

 

そう、すべては、

 

「私」が存在している、という超巨大な幻想が生み出す、

 

副次的な苦しみだったんですね。

 

 

 

個別の名前、個別の肉体、個別の意識を持った「この私」を「ほんとうの自分」だと思っている限り、欠乏感は決して消えません。

 

だって、それは「ほんとう」ではないからです。

 

欠乏感は、「ほんとうの自分」からの呼びかけ、サインともとれるかもしれません。

 

 

 

「ほんとうの自分」とは、「個別の私」を遥か超えたところに、ただただ「在る」、

 

なくてある、ないからこそある、たったひとつの、

 

いやほんとうはひとつとも呼べない、数えることもできない、

 

とにかくただ「在る」、「在る」としか言えない、「それ」のことです。

 

「それ」は、そのまま「すべて」です。

 

 

 

「私」の欠乏感を満たす……というより、

 

そこにはそもそもなんの欠如もなかったのだ、ということに気づくためには、

 

まずは、自分というものの成り立ちを見つめることです。

 

注目すべきは、「外側」ではなく「内側」です。

 

 

 

「自分なんかいなかった!」

 

ことに気づくと、まったく同時に、

 

「すべては“自分”だった!」

 

ということにも気づけるのです。

 

 

 

「すべて」は、「すべて」です。

 

そこにはなんの欠如もありません。

 

「それ」は、そのままで、完全に、完璧です。

 

そして、「それ」こそが、「ほんとうの自分」の正体です。

 

その事実を知ることから、「ほんとうの自由」は始まっていきます。

 

 

 

……随分抽象的なお話になってしまいましたが、

 

ただ、ありのままを書いてみました。

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください。