このブログでも過去幾度か書いていますが、
私は、「個別の魂」というものの存在を信じていません。
だから、個別の魂を主体とした輪廻転生というものも、ぜったいにあり得ないと思っています。
だって、そもそもみんな「ひとつ」なんだから。
私たちは、いつだって、「ひとつ」のいのちを生きているんです。
私たちひとりひとりが、てんでばらばらに、個別のいのちを生きているのではなく、
たった「ひとつ」のいのちが、私たちひとりひとりを生きているんです。
いのちは人の数だけあるのではありません。
いのちは、たった「ひとつ」。
私が生きるいのちと、あなたが生きるいのちは、
いや、私に生きるいのちと、あなたに生きるいのちは、
まったく同じ、「ひとつ」です。
生きている限り、「私」という幻想は続くけれど、
(なかには、生きながらにして、“完全に”「私」という幻想からフリーになったような方もいらっしゃるようですが、でも、ごくごく少数でしょう)
死ぬときには、かならず、どんな生き方をした人でも、どんな死に方をした人でも、
かならず!
その幻想から解き放たれます。
そして、たった「ひとつ」のいのちの中に融けていきます。
その意味で、死は「出立」ではなく「帰還」です。
「あ、なんだ。“私”なんか、そもそもの最初からいなかったんだ!」
「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、“わたし”だったんだ!」
これが、死の瞬間に起こることです。
「私」という個別の魂が、「私」という個別の肉体から離れて、「私」という個別の意識を持ったままにどこかに旅立っていき、
そこから先、なにか、こう、「魂の集会所」みたいなところに行って、
「次」に「私」が宿るべき個別の肉体を決める……
っていうのは、まあ、お話としてはとても面白いなあと思うのですけれど、
でも、事実であるわけがないと思うんですよね。
(今日は小出さん、随分過激ですね~。笑)
だって、そもそも「私」が幻想なのだから、「私」の「前世」も「来世」もあったものじゃないですよ。
死後も幻想の世界で遊ぶおつもりですか? っていう。
(うーん、過激だ!!!)
いや、前世療法とかを否定するつもりはないんです。
「物語」の効用は熟知しているつもりです。
現に、それで、説明のつかない苦しみから救われた方々だってたくさんいらっしゃる。
それを受けたことによって、「いま」を生きられるようになったのなら、そんなに素晴らしいことはないです。
いや、さんざんこんなこと言っている私だって、興味本位で、「前世」見てもらったこともあるんですよ。笑
で、それなりに腑に落ちるところもあって(周りの人たちとの関係性とか、自分の生き方のクセとか。それを今後どのように変えていくのか、とか。)それによってかなりヒントをもらえた部分はあるんです。
だから、本当に、そういう「やり方」は、まったく否定しないし、むしろ、機会があれば、必要に応じて用いることも楽しいんじゃないかな、と思うんです。
でも、それはあくまで「前世」という名の「物語」、もっと言えば「フィクション」だと認識しておいた方がいいんじゃないかな、と。
いや、何度も言うけれど、「物語」によって苦しみが軽減されることだってあるし、
本人がそのとき、どうしてもそれを必要としているのなら、そこに浸ることだって時には必要だと思うんです。
でも。
ほんとうの「解放」は、「物語」から自由になったときに生まれるものだと思っているので。
そこはもう、確信を超えたところから、ただただ「そうでしかない」と思っているので。
というか、そこにしか、ほんとうの意味での「解放」はないと思っているので。
ちょっと過激な部分はあったかもしれないけれど、そこを軸にして、今日の記事を書きました。
まあ、放っておいても「解放」の時はやって来るので、
それまでは、「私」という名の「物語」を楽しんでいたっていいんじゃないの?
それしかできないんだし、思いっきり楽しんじゃえばいいじゃん。
とも思うんですけれどね。
あはは。結局いつもこのオチだね。笑
いや、投げやりな感じじゃなくね。
あったかいところから、そんな風にも思うんです。
東京は雨の朝です。
よい日曜日を。