攻撃に走ってしまう人は、とにかく怯えているのだと思います。
怖いんです。自分が損なわれてしまうのが。
だから、とにかく身を守ろうとして、武器を増やしてしまう。
鎧の上に鎧を重ねてしまう。
そうして、行く先々で「戦争」を勃発させてしまう。
でも、この状態って、苦しいんですよね。
周りも苦しいし、なによりも、自分が、苦しい。
当然ですよね。武器も鎧も重いのだから。
それらを増やせば増やすほど、動きは鈍くなっていってしまう。
動きが鈍くなると、「逃げられなくなるかもしれない!」と、恐怖感が増幅して、
さらに周囲に対して攻撃的になってしまう。
物音ひとつに怯えて、そちらに銃口を向けてしまう。火をふかせてしまう。
そうやって、相手を「倒した」はいいけれど、今度は「復讐」に怯えて、さらに武器や鎧の数を増やしてしまう……。
すべて、自分というものの正体を知らないからこそ起こってくる悲劇です。
この状態を、仏教では「無明(むみょう)」と呼ぶのでしょう。
すべての「苦しみ」は、ここから生じてきます。
ほんとうに強い人は、武器を持ちません。
自分を守る鎧すら身に着けません。
そもそも守るべき自分というものを持たないので、
いつだってほぼ裸一貫で、ゆったりと微笑んでいられるのです。
そう。守るべき自分なんて、ほんとうはどこにもいないんです。
自分なんていない。ということは、つまり、すべてが、「自分」なんです。
自分の境界線が消えると、すべてが「自分」になってしまうんです。
そして、それこそが、「ほんとう」の世界です。
全部が「自分」だということを知った瞬間に、「敵」はこの世から消えてなくなります。
武器を手放せます。鎧を脱ぎ捨てられます。
すると、身も心も軽くなります。
「自由」を、生きていけるようになります。
「光」を遮っているのは、自分を守ろうとする、自分の手のひらなのかもしれません。
自分が必死で守ろうとしている自分って、一体なにものなんだろう?
そこを見つめることをはじめなければ、いつまで経っても暗闇から抜け出すことはできないのではないかな。
苦しくて仕方がないならば、いま、見つめないと。
大丈夫。
なにも怖いことなんかない。
ぜったいに、大丈夫です。
「光」は、いつだって、「いま」「ここ」に。
今日も、鼻歌混じりで、機嫌よく生きていきましょう。
素晴らしき一日を!