すべては「わたし」

2015年6月1日

目の前のPCも、スタンドも、机も、手帳も、ノートも、ペンケースも、マグカップも、

 

机も、椅子も、床も、壁も、本棚も、そこに並ぶ本たちも、

 

窓も、窓の向こうに見える川も、橋も、川辺の緑も、

 

そこを駆けるランナーも、自転車に乗る人も、散歩中の人も、犬も、

 

空も、そこに浮かぶ雲も、鳥も、

 

ひんやりとした空気も、そこに混じる水の粒も、光の粒も、吹き渡る風も、

 

それを感じる皮膚も、皮膚に覆われたこの肉体も、

 

この呼吸も、鼓動も、キーボードを打つ指の動きも、その感触も、

 

すべて、すべて、すべてが、

 

 

 

「わたし」

 

 

 

ただ、「わたし」なんです。

 

ほんとうに、すべてが「わたし」なんです。

 

「わたし」でないものは、ないんです。

 

「わたし」だけが、「在る」んです。

 

 

 

この「わたし」は、「小出遥子」のことではないです。

 

「小出遥子」という個別の意識を遥かに超えたところにある、

 

「小出遥子」すら含んだ、「すべて」としての、「わたし」です。

 

 

 

すべては「小出遥子」の分身なんです!

 

とか、そういうお話では決してありません。

 

だって、そもそも「小出遥子」はいないんです。

 

「小出遥子」もいないし、「あなた」もいない。

 

いないからこそ、

 

「小出遥子」は「わたし」だし、

 

「あなた」は「わたし」だし、

 

「すべて」が「わたし」。

 

そういうことが、可能になるんです。

 

 

 

もう、ほんとうに、ただただ、すべてが、「わたし」なのだと。

 

「わたし」でないものはないのだと。

 

「わたし」だけが、「在る」のだと。

 

 

 

「ある」と「ない」のど真ん中から、

 

「ある」と「ない」をひっくるめた「それ」のど真ん中から、

 

「伝えよう」という意志すら放棄して、

 

ただただ、「わたし」を伝えてみたら、

 

こんなことになりました。笑

 

 

 

「理解」として伝わらなくても、「感覚」だけだとしても、

 

なにか、伝わるものがあれば……