「なにも見ていない」と同時に「すべてを見ている」

2015年5月20日

伊豆の修善寺温泉に修禅寺(「善」じゃなくて「禅」)というお寺があります。

 

なにを隠そう、私と夫の初デートの場所はそのお寺だったのでした。(渋すぎる……!)

 

我々が訪れたときには、ちょうど、ご本尊である、鎌倉時代の大日如来像が一般公開されていました。

 

私は、仏像を拝むときは、できるだけ視線が合わさるポイントを探って、そこから両手を合わせて仰ぎ見るようにしているのですが、

 

どういうわけか、その大日さまとは、どんなにがんばっても、まったく目が合わなくて……。

 

いや、仏さまの両目は、たしかに私の方を向いているんです。

 

でも、決して私個人を見ていない。

 

だからと言って、ほかのなにかを見ているわけでもない。

 

あのときのなんとも不思議な感覚、さみしくはないけれど、どこか「しん」と静まり返ったような気持ちは、いまでもはっきりと覚えています。

 

 

 

あれから時は流れ、私は、坐禅の教えに出会いました。

 

坐禅では、目をうっすらと開けた状態で坐ります。

 

そのときのポイントとしては、

 

「なにも見ていない」けれど、同時に、「すべてを見ている」状態を探っていくこと。

 

え~? そんなこと出来るわけないじゃん! と思いますよね。

 

でも……できるんですね。

 

一見して真逆なことが、完全に同時に成り立ってしまうんです。

 

これ、頭で理解しようと思ってもできないと思います。

 

だって理屈を超えているから。

 

理屈を超えたところで、「そう」としかいいようのない状態に自然となっているものだから。

 

 

 

その「自然と」というのが、たぶん、ものすごく大きなポイントなのだと思う。

 

これは、個人が意識をもって努力したところで、決して達成できないところで。

 

だって、その状態になっているときには、個人の意識(例:小出遥子の意識)は消えてしまっているはずなんです。

 

個人の意識が消えると、目にうつるものすべてが「自分」になるんです。

 

というか、そもそもぜんぶが「自分」であったことに気がつくんです。

 

世界がまるごと「自分」になる。

 

というか、世界はまるごと「自分」である。

 

ただ、そう「ある」。

 

それこそが、坐禅というものなのかな、と……。

 

 

 

あの修禅寺の大日さまは、きっと、世界そのものとして、そこに坐っていらっしゃったのだろうな、と。

 

「なにも見ていない」けれど、「すべてを見ている」あの目。

 

「なにも見ていない」からこそ、「すべてを見ている」あの目。

 

「世界」というものを思うとき、あのうつくしい両目が、いつだってセットになって浮かんでくるのです。

 

 

 

合掌