100%仏で、100%人間

2015年5月17日

100%人間であり、100%菩薩である、

という事態が同時に成り立つんだ

(いや、初めから成り立っていたんだ)

ということを理解するのが、

人生の深まりというものなのかもしれないですね。

 

 

 

少し前に、師匠が、上記のようなメッセージをくださいました。

 

たぶん、一行目の「菩薩」は、「仏」ということばに置き換えられるのだと思います。

 

100%人間であり、100%仏である、

という事態が同時に成り立つ

 

師匠のことばは、私にとって、いつも禅問答の問いのようなもので、かなり鍛えられます。笑

 

今回も例にもれず「うーん……。わかったような、わからないような……?」となっていたのですが、

 

昨夜、夜道を夫と歩いていて、「あ、これだ」と、すとん、とおさまるものがあったので、今日はそれを書いてみます。

 

 

 

曼荼羅ってありますよね?

 

密教の胎蔵界曼荼羅が分かりやすいかな。

 

あれは、ど真ん中に一尊の大日如来、その周りに、大日如来の化身である無数の違った仏さまの姿が描かれています。

 

そして、そのすべてで、また一尊の大日如来を表現しているのだそうです。

 

マクロを見つめることが、そのままミクロを見つめることになり、

 

ミクロを見つめることが、そのままマクロを見つめることになる……。

 

メビウスの輪みたいですよね。

 

終わりがない。

 

というか、そもそもぜんぶが同時。

 

「一即多」「多即一」の世界観がそのままあらわされたのが曼荼羅なんです。

 

 

 

曼荼羅っていうのは、実は決してフィクションなんかじゃなくて、

 

いま、私たちが生きるこの世界、そっくりそのまま、そのものがそこには表現されているんですね。

 

鳥 虫 けもの 草 木 花

春 夏 秋 冬 連れてこい

春 夏 秋 冬 連れてこい

 

……とは、映画『かぐや姫の物語』の劇中歌の詞の一部ですが、

 

(すみません、ジブリ大好きなんです……。)

 

この世界は、まさに、無数のあらわれによって構成されています。

 

そして、そのすべての大元には、たったひとつの「いのち」があります。

 

そのたったひとつの「いのち」の名前が、「大日如来」です。

 

 

 

だから、たとえば、いま、PCに向かっている小出遥子を成り立たせている「いのち」と、

 

いま、私の後ろで本を読んでいる夫を成り立たせている「いのち」と、

 

私たちのマンションの隣の部屋に住む赤ちゃんを成り立たせている「いのち」と、

 

窓から見える川沿いの道を散歩しているおじさんを成り立たせている「いのち」と、

 

土手の野草の一本一本を成り立たせている「いのち」、

 

川を泳ぐ魚の一匹ずつを成り立たせている「いのち」、

 

それらは、実はまったく一緒の「いのち」であり、

 

そのままイコールで「大日如来」なのだと。

 

簡単に言ってしまえば、そういうことになります。

 

そして、また、まったく同時に、

 

小出や、夫や、赤ちゃんや、おじさんや、野草の一本一本や、魚たちや……

 

それらすべてが、そのまま、「大日如来」という世界、「大日如来」というひとつの「いのち」の構成要素になるのです。

 

意味、伝わっているかな……?

 

 

 

胎蔵界曼荼羅の大日如来の周りに描かれた無数の仏さまは、そのまま、

 

鳥 虫 けもの 草 木 花

 

それらのひとつひとつに相当します。

 

その中には当然、ひとりひとりの人間も含まれているでしょう。

 

 

 

私たちは、みな、大日如来の化身です。

 

その意味で、みな、100パーセント「仏」です。

 

でも、同時に、個別の肉体、個別の意識、個別の名前を持った、個別の「人間」としても存在しているんです。

 

そして、その個別の存在すべてで、また、ひとつの「仏」を構成している……。

 

この世は、そのまま、曼荼羅です。

 

私たちは、いつだって、100パーセント「仏」で、100パーセント「人間」です。

 

 

 

ということで、師匠、これでどうでしょう?

 

人生、深まった……のか?笑

 

 

 

よい日曜日を。