「Gateway to ほんとうのこと」としての仏像のこと。

2015年5月15日

昔は随分と熱心に仏像を拝んで回っていました。

 

お寺の門をくぐったら真っ先に仏像の形をしたご本尊の前に行ってご挨拶をしていました。

 

ほかのものには一切目もくれず。

 

仏像こそが仏さまの化身なのであり、ほかのものは単なる飾り。

 

そのぐらいにしか思っていませんでした。

 

でも、それは大きな勘違いでした。

 

 

 

確かに、仏像は仏さまの化身です。なんたって「仏」の「像」だし。

 

でも、仏さまの化身なのは、別に仏像だけに限ったお話ではないのでした。

 

たとえば、仏像を納める厨子だって、言ってみれば仏さまの化身だし、

 

天蓋だって仏さまの化身だし、ろうそくだって、そこに灯る炎だって仏さまの化身だし、

 

鐘も、撥も、お供えものの数々も、経本も、お経をよみあげるお坊さんも、

 

それを聞いている自分自身も、一緒に聞いている人々も、

 

本堂自体も、お寺の境内に植わっている木々の一本一本も、

 

いや、それどころかお寺を出たところにある、道路や、お店や、空、鳥、道行く見知らぬ無数の人々も……

 

みんなみんな、ひとつ残らず、仏さまの化身なんです。

 

大昔からいろんなかたちで語られ続けてきたその真実を、理屈を超えたところで深く理解したとき、仏像だけを熱心に拝み続けていた自分が消えました。

 

 

 

いや、確かに、仏像は分かりやすい例なんです。

 

(イメージとしての)仏さまのかたちをしているのだから、それが「それ」だと言われたら、「ああ、そうなのね~」とすんなり理解できる。

 

でも、それは、たまたまそういう役割をもって、そういうかたちとしてあらわれているだけなのであり、

 

ほかのなにかだって、ほんとうは、すべて、文字通りひとつ残らず、たった「ひとつ」の仏さまのあらわれなんですね。

 

 

 

仏さまは、人のかたちをしたなにかではありません。

 

かと言って、人以外のかたちをしたなにかでもありません。

 

仏さま自体にかたちはないんです。

 

仏さまは、目に見えないエネルギー、そのものなんです。

 

目に見えないたった「ひとつ」のエネルギーそのものとしての仏さまがこの世界に現出するときに、

 

目に見えるようになったのが、

 

「あれ」や、「それ」や、「これ」や、

 

「私」や、「あなた」や、「彼」や、「彼女」という、それぞれに違ったかたちをもったものたちなんです。

 

逆に言えば、

 

「あれ」や、「それ」や、「これ」や、

 

「私」や、「あなた」や、「彼」や、「彼女」、

 

そういった目に見えるものを、

 

それぞれに違ったかたちをもってこの世に出現させている「なにか」、

 

その、目には見えない、たった「ひとつ」の大元のエネルギーこそが、仏さまの正体、と言うことができます。

 

 

 

みんなみんな仏さまなんです。

 

みんなみんなありがたい存在なんです。

 

ほんとうはね。

 

 

 

……とは言え、その真実に至るためには、やはり、なんらかのとっかかりが必要なわけで。

 

その意味で、「仏像」というのは、ものすご~~~く私たちを助けてくれる存在だなあ、と思うんです。

 

「Gateway to ほんとうのこと」としての仏像を、一周回ってまた熱心に拝みはじめている小出です。

 

 

 

南無仏像仏。

 

ありがたや~。