愛するということ。

2015年5月14日

最近の私は、ほとんど毎日、毎時、毎瞬、恋をしてしまっています。

 

お相手は、男の人でも、女の人でも、いや、人に限らず、動物でも、植物でも、風景でも、有機物でも、無機物でも……

 

まあ、この世のすべてが、言ってみれば恋愛対象になり得ます。

 

突然なにを言いだすんだ!? ついに完全にイカれちまったか!? と思われても仕方がないのですが、

 

(しかも私は新妻と呼ばれる立場にあるのに……!笑)

 

実際そうなのだから仕方がないですね……。

 

それぐらい、魅力的な誰かやなにかとの出会いが続いています。

 

まあ、恋だなんだと言っても、その対象と「どうこう」(笑)なろうとかいう感覚には一切ならず、

 

ただただ、しみじみと、その出会いをよろこんでいる感じです。

 

地に足の着いた恋。

 

いや、その意味ではこれは恋じゃなくて、愛かもしれないですね。

 

ここでは完全に「ハート」が主体で、「頭」が出しゃばる隙がないもの。

 

愛するものたちに囲まれて、私は、うれしい。

 

彼らとともに、いや、もっと言えば彼らと同じいのちを、いま、ここで、ともに生きている……

 

このシンプルな事実が与えてくれるよろこびは、筆舌に尽くしがたいものがあります。

 

 

 

若い頃夢中になって聴いていたある女性ミュージシャンは

 

「好きな人やものが多すぎて 見放されてしまいそうだ」

 

とほとんど泣き叫ぶように歌っていました。

 

昔の私は、それに、「この見放されそうな感じ、わかる、わかるよ……」なんて、ものすごく共感していたのですが、

 

いまは、「好きな人やものが多すぎ」るのにもかかわらず、「見放され」るような感覚とは無縁でいます。

 

むしろ、強く「ひとつ」を感じています。

 

だって、この愛の主体は「小出遥子」じゃないんだもの。

 

「ひとつ」を感じているのは、「小出遥子」を超えたところにある「なにか」なんだもの。

 

 

 

個別の肉体、意識をもってする恋愛って、まず、相手と自分との一対一の関係性にフォーカスが当たりがちだと思うんです。

 

「あの人は私のことをどう思っているんだろう」とか、

 

「あの人の特別になりたい」とか。

 

それが悪いと言いたいわけじゃなくて(それだってとても素敵な体験です)、

 

でも、その個別の自分を超えたところにある恋愛っていうのは、

 

まずなによりも、疲れないんですよね。

 

疲れない、どころか、対象を愛すれば愛するほど、力が湧いてくる。

 

これは大きな違いだと思います。

 

 

 

一対一の関係性を超えたところにある恋愛では、対象をまるごと受けいれる力が養われます。

 

相手がどうあろうとも、どこでなにをしていようとも、自分に対してどういう態度をとろうとも、「すべてOK」と笑える力。

 

「そのままのあなたでいてください」と、見守るようにして包みこめる力。

 

随分と高度なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、

 

実はこれ、ごくごく当たり前の状態だったりするんですよね。

 

存在の源まで還っていけば、どんな存在だって、そこに辿り着かざるを得なくなるんです。

 

 

 

ここでの恋愛のベースには、

 

「あなたと私はまったく同じ、ひとつのいのちを生きている」

 

という絶対的な確信があります。

 

同じいのちの、別々のあらわれとして、いま、ここで出会えたよろこび。

 

それをただただ噛みしめるのが、「愛する」という行為なのかもしれません。

 

 

 

愛することを教えてくれた、彼に、彼女に、あの子に、あの自然に。

 

こころからの「ありがとう」を。

 

あなたと私は「ひとつ」です。

 

「ひとつ」であることが、うれしいです。