「時間」はフィクション、「私」もフィクション

2015年5月12日

「時間」なんてものは、実はどこにもないんです。

 

だってず~っと「いま」だから。

 

その「いま」っていうのも、この瞬間、この一瞬のことを指すことばではなくて、

 

つまり、「過去」から「未来」へと続く直線上にある「この」一点だけを指すものではなくて、

 

(そもそも「過去」も「未来」もフィクションです。それは私たちの頭の中にしかない。)

 

ずっとずっとずっと「ここ」にある「いま」のことです。

 

これまでも、これからも、ず~~~っと「いま」なんです。

 

「いま」しかないんです。

 

「いま」は途切れることがありません。

 

「いま」というのは、すなわち「永遠」です。

 

 

 

上記のようなことは、お釈迦さまをはじめとする数々の偉大な先人たちによって、

 

遥か昔から繰り返しことばを変えて語られ続けていることであって、

 

決して小出があたらしく発見したことではありません。

 

そもそも「時間」の概念が消えて「いま」だけになると、その瞬間に、

 

「固定化されて続いていく個別の私」(例:小出遥子)というものも、まったく同時に消えてしまうんです。

 

つまり、「いま」=「すべてとしての私」ということになるんです。

 

だから、「小出が」あたらしくなにかを発見したり、「小出が」あたらしくなにかを語ったりするような事態は、そもそも生じなくなってしまう。

 

……意味、伝わってますか?笑

 

 

 

これ、本当にほんとうだな~と実感しています。

 

というのも、私、最近、昨日より前の記憶があまりにも薄いんです……。

 

いや、昨日以前なんてもんじゃない、数時間前、もっと言えば数分前の記憶だってあやしいもんです。

 

下手したら数秒前の記憶も定かではないかもしれない……。

 

と言っても、もちろん、記憶が消えているわけじゃないんです。思い出そうと思えばまったく普通に思い出せる。

 

でも、普段は「過去」が意識にのぼってこない。

 

これ、「過去」だけじゃなくて、「未来」のことにも言えます。

 

最近の私は、あんまり「未来」のことも考えていないな……。

 

いや、必要に応じて考えることもあるけれど、普段はほとんど「未来」を意識していない。

 

ただ目の前のことをやっているだけ、という感じです。

 

 

 

昨日もこんなことがありました。

 

私が「昔の私だったら……」といったセンテンスを口にしたときに、

 

夫が「それってどれぐらい昔?」と聞いてきたんです。

 

そのとき、冷静になって考えてみて、私が出した答えは、

 

「一、二週間ぐらい前かな……」

 

というもので……!

 

ぎゃ、ぎゃーーー!!!

 

一、二週間ぐらい前って! ぜんぜん「昔」じゃないじゃん!!!

 

いや、でも、実感として「昔」、もっと言えば「大昔」だったんですよ。もう、ほとんど「前世」ぐらいの気持ちで。

 

さらに言えば、それも「私」の話とは認識していなくて。

 

「遠い昔の誰かさん」の物語を話しているような感覚だったんですよね……。

 

 

 

こういうことが、最近、あまりにも多くてですね……。

 

「時間」も「私」も、瞬間瞬間に立ち上がってくる「フィクション」にすぎないのだと。

 

そう考えなきゃ、もう、説明がぜんぜんつかないんです。

 

いや、考えるもなにも、もう体感として半ば強制的に実感させられているというか。

 

「そうなんだから、そうなんだよ~」

 

という感じなんです。

 

 

 

これ、ぜんぜん不快じゃないです。

 

「乖離感」は一切ありません。

 

それどころか、「ズレ」というものがほとんどない状態になっている気がする。

 

どこからの「ズレ」なのかと問われれば、

 

「小出遥子」を超えたところにある、ほんとうの私、ということになるのかなあ……。

 

 

 

なんというか、いま、かなり「自由」な感じはします。

 

「ほんとうの自由」っていうのは、フィクションからの自由を指すものだったんだな~。

 

なんだか楽だし、楽しいし、特段不都合も生じていないので、このまま生きてみようと思います。