南無地蔵菩薩

2015年5月11日

わが師ブッダよ。地蔵菩薩はあなたの弟子であり私の兄です。地蔵は、地獄が空になるまであらゆる生き物たちを救い出す仕事をけっしてやめないという、深遠な誓いを立てた偉大なる菩薩です。地蔵とは、まさに菩薩にふさわしい名です。大地を蔵する者――そこには安定と、拡張と、すべてのものを含み、包み込む力が含まれます。

 

(中略)

 

わが師ブッダよ。かつてあなたは、羅睺羅(らごら)尊者に大地のように生きなさいと教えたことがありました。「羅睺羅よ、大地のような存在になることを学びなさい。たとえば、よい薫りのする混じりけのない香水や、香り高いミルクのような液体を注がれ、まき散らされても、大地は得意になったりはしない。また不潔で嫌な臭いのする糞尿や、血や膿、痰などを注がれても、大地は怒りや憎しみや羞恥心をもったりはしない。大地とは、すべてを受け入れ、抱き取り、変えてしまう力をもった存在なのだ」

 

地蔵菩薩もまた、大地と同じ安定と変容のエネルギーを備えた存在で、あらゆるものを抱き取り変容させることができます。私も地蔵菩薩や羅睺羅尊者のように、大地にならって生きることを学ぼうと思います。

 

(『大地に触れる瞑想 マインドフルネスを生きるための46のメソッド』 ティク・ナット・ハン=著 島田啓介=訳 野草社=刊 より抜粋)

 

 

 

 

 

私は割とよく「お地蔵さんみたい」と言われるのですが、

 

(丸くて単純で庶民的な顔立ちをしているからでしょう……)

 

いやいや! そんな! めっそうもございません!

 

というのが正直なところで……。

 

 

 

だって、地蔵菩薩って、考えれば考えるほど偉大な仏さまです。

 

すごいです。ぜんぶを受け入れ、抱き取ってしまうだなんて。

 

小出など地蔵菩薩の足元にも及びません! というか、そもそも比較にもならないです……。

 

南無地蔵菩薩。

 

 

 

地蔵菩薩は、文字通り「地」の仏です。

 

つまり、この地にいのちがある限り、(そして重力というものが働いている限り)

 

私たちは、基本的には、一秒たりとも、地蔵菩薩から離れて存在できるものではないということで。

 

 

 

私は、過去に二度ほど、地蔵菩薩を本尊とするお寺で、不思議な体験をしました。

 

一か所は安産祈願で有名なお寺、もう一か所は死者供養で有名なお寺でした。

 

私が訪れたときには、たまたま、それぞれに、どっしりとした地蔵菩薩の像の前で、儀式が行われている最中でした。

 

片や、この地にいのちを迎え入れるための儀式。

 

片や、この地からいのちを送り出すための儀式。

 

真反対のことが行われているかと思いきや、その場を包み込む空気としては、不思議なことに、まったくもって同質なものを感じたのでした。

 

どちらのお寺においても、どういうわけか、涙を止めることができない自分がいました。

 

 

 

いのちは、地から生まれ、地に生き、地に還っていきます。

 

そこには、すべて、地蔵菩薩のはたらきがあります。

 

その意味で、

 

未だこの地に生まれ出ていない存在にも、

 

いまこの地を生きている存在にも、

 

すでにこの地を去った存在にも、

 

まったくもって、ひとつの違いもないのだろう、と。

 

地蔵菩薩の前では、すべて、等しく、おなじ「いのち」のあらわれなのだろう、と。

 

あきらめとも安心感ともつかないような、淡々とした、それでも奇妙にあたたかな感覚に包まれて、

 

私は、ふたつの別々のお寺で、まったく同じように、いつまでもいつまでも涙を流し続けていたのでした。

 

 

 

「ただ、そうあること」

 

「ただ、そうなっていること」

 

そのはかり知れない偉大さの前では、涙を流すことしかできないのでした。

 

その涙は、決して、嫌な涙ではありませんでした。

 

 

 

南無地蔵菩薩。

 

地蔵菩薩に帰依します。

 

というか帰依せざるを得ません、というのが正直なところです。

 

「いのち」としてあるもののうち、地蔵菩薩がはたらきかけないものなどないのだから。

 

 

 

見た目だけじゃなく、行動も、いや、小出遥子というあらわれそのものも、

 

地蔵菩薩に近い存在として生きていけたら素敵だな、と思います。

 

精進します。

 

 

 

南無地蔵菩薩。