「フィクション」としての感情について

2015年5月8日

ここ数年の間で、もっとも悲しかったこと、もっとも怒ったことってなんだろう、と考えているのですが……

 

これが、もう、さっぱり思い出せなくて……!!!

 

あのとき、あの人の前で泣いたな~、とか、あの人に対して腹を立てたな~、とか、そういう「出来事」としての記憶はなんとか辿れるのですが(それだって相当苦労しないと思い出せないのですが……)、

 

じゃあ、具体的に、なぜ悲しかったのか? なぜ腹を立てたのか? と問われると、

 

もう、完全に沈黙です……。

 

本当に、さ~~~っぱり、思い出せないんです……。

 

これは、ちょっと、驚きでした……。

 

 

 

と同時に、しみじみと思ったのが、感情って、ほんと、その時その時だけのものなんだな~、ってことで。

 

その時その時に、「ぱんっ」とキレ良く味わうことさえできれば、あとに残ることってないんだな~、と。

 

私は、いつの間にやら、その場その場でその時々の感情を味わい切る、という技を身に着けていたのだな~、と。

 

だからこそ、いま、「物語」としての感情からフリーでいられるのだな~、と。

 

これって、かなり、楽ちんだな~、と。

 

 

 

その場、その時を離れた感情は、すべて「物語」になってしまうんです。

 

あの時、あの人がああ言ったから、私は悲しんだ

 

とか、

 

あの時、あの人があんな行動をとったから、私は怒った

 

とか、

 

そういうのって、ぜんぶ「物語」なんです。

 

もっと強いことばで言えば「フィクション」なんです。

 

 

 

外側の出来事と、自分の感情との間には、実は、固定化された因果関係はありません。

 

それが証拠に、同じ出来事を体験したところで、そこにあらわれる反応は人それぞれだったりします。

 

反応は人それぞれのその時点での性格や、その瞬間の体調などによって変わってきます。

 

まったく同じ人が、まったく同じ出来事を体験したとしても、3年前の反応と、いまの反応とは、また違ったものになっているはずです。

 

ぜんぶがぜんぶ、刻一刻と移り変わっていっているんです。

 

だから、

 

「○○という出来事のために、私は××という感情を味わった」

 

なんてことは、本当はひとつとして言えるものではないんですよね。

 

そこに固定された公式は決して成り立たないんです。

 

逆に言えば、公式を持ち込んだ瞬間に、その感情は「フィクション」になってしまうんですね。

 

 

 

「フィクション」としての感情を楽しみたい人はそれでもいいけれど、

 

でも、その実体のない感情をこねくり回しているうちに、

 

いま、この瞬間に立ち上がってくる「生(なま)」の感情を取り逃すことだってあるんじゃないかなあ……と。

 

それって、なんだかもったいなくないですか?

 

「生(せい)」を味わうチャンスは、「いま」にしかないのに。

 

 

 

感情をその場で味わいきるためには、「出来事」ではなく、「肉体感覚」に目を向けるといいです。

 

たとえば悲しみ。

 

みぞおちの奥にツーンとした冷たくて重いかたまりが生じて、それがじわじわとせり上がってきて喉を圧迫し、顔の表面が熱くなり、目から涙が溢れて、頬が濡れていく……

 

その一部始終を、ただ、見つめるんです。

 

「出来事」は反芻しないでください。

 

ただ、肉体感覚だけを追うんです。

 

肉体感覚は、「いま」のものです。

 

それは、ただ、「いま」起きてくるものです。

 

それを、ただただ、味わうんです。

 

そうやって、「いま」にいることさえできたら、感情は満足して消えてくれます。

 

あとにはなにも残りません。

 

きれいさっぱりさようなら、です。

 

 

 

まあ、フィクションに逃げたくなるときだってありますけどね……。

 

誰かや何かのせいにしたくなること、私だってしょっちゅうです。

 

でも、それをやってしまうと、「いま」を味わえなくなってしまいます。

 

それは、やっぱり、ざんねんなことだなあ、と思うのです。

 

 

 

 

 

フィクションに気をとられている暇はないよ。

 

せっかく、いま、生きているのだから。