「ほんとうの私」=「スクリーン」説の問題点

2015年5月7日

「“私”とは誰か?」

 

と問われたら、

 

「“小出遥子”の構成要素をひとつひとつそぎ落としていったときに、最後に残るもの」

 

と答えます。

 

というか、そういう風にしか答えられないんじゃないかな……。

 

 

 

ここでのポイントは、最後に“残る”もの、というところ。

 

“それ”は、いつだって、「いま」「ここ」に在るんです。

 

“小出遥子”と同時に、“それ”は、在る。

 

でも、普段は“小出遥子”こそを“私”だと思い込んで生きているものだから、

 

そこに在る“ほんとうの私”に気づくことがないんです。

 

なんてったって“小出遥子”は声がでかいし、アクションも派手だから。笑

 

人間、どうしたって、目立つものの方に気を持っていかれがちなんですよね。

 

それゆえ、そのベースにどうしようもなく横たわっているものの存在には、普段は気づきもせずに生きている。

 

でも、“それ”は、いつだって、「いま」「ここ」にあるんです。

 

 

 

よく、こんなたとえが使われます。

 

個別の人生(例:“小出遥子”の人生)は、スクリーン上に投影される映画のようなもの。

 

それは、完全に“小出遥子”目線から切り取られた映画です。

 

“小出遥子”の両目が、そのままカメラとなって、目の前の映像を記録し続けているんです。

 

(以前、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』っていうホラー映画が話題になりましたよね。完全に主人公たちの目線と同化して撮られた実験的な映画でした。あのイメージ。)

 

通常の映画だったら、カメラに記録された映像は、じっくりと編集されて、その上で、観客に公開されるものですが、

 

この「人生」という名の映画の面白いところは、カメラに記録された映像を、そのままライブで観客が見ている、という点で。

 

観客は、スクリーン上に投影される物語こそを“私”の人生だと思って夢中になってそこに没入しているわけですが、

 

いざ上映が終わって、明かりがついてみれば……

 

そこにあるのはただの真っ白なスクリーン。

 

「人生」の中で、どんなに主人公が傷ついたり、大泣きしたり、激情にかられてとんでもないことをしでかしたりしても、

 

スクリーン自体には、一ミリも傷なんかついておらず、ただ静かにそれとしてあるだけ。

 

そして、そのスクリーンこそが“ほんとうの私”なのだと。

 

 

 

でも、このたとえ話にはひとつ問題があって。

 

それというのも、このたとえだと、スクリーンと、スクリーンを見ている観客、というのが分離してしまっていますよね。

 

これは実はまったく正確じゃなくて。

 

「見るもの」と「見られるもの」は、ほんとうは「ひとつ」なんです。

 

だから、このたとえを用いて無理やり言い表すとしたら……

 

「スクリーンとして、“人生”という名の物語を、映しつつ、見ているもの。それが“私”」

 

ということになるでしょうか……。

 

あはは、めちゃめちゃだ。

 

でも、これが“ほんとう”なんです。

 

 

 

“ほんとうの私”は、スクリーンとして、ただ、見ているんです。

 

スクリーン「を」見つめる主体が“私”なのではなく、

 

スクリーンそのもの「として」、数々の“人生”という名の物語を、ただ映している、

 

そして、それと同時に、スクリーンそのもの「として」 数々の“人生”という名の物語をただ見ている、

 

その「ただ、映し、まったく同時に、ただ、見ている」ものこそが、“ほんとうの私”の正体です。

 

 

 

……イメージできますでしょうか。

 

難しいですよね。

 

だってぜんぜんうまく言えた気がしないもの……。

 

すみません、現時点での小出のことばの限界です。

 

でも、今後もしつこくチャレンジし続けよう。

 

 

 

応援よろしくお願いします。笑