「役割」を果たすこと。

2015年5月5日

先日、あるワークショップで、自分が死の間際まで手放せないものについて、真剣に考えるということをしました。

 

結論から言えば、私の手元に最後まで残ったのは、

 

「自分の役割を果たすこと」

 

と書かれたカードでした。

 

 

 

「役割」ということを、ずっとずっと考えています。

 

お寺や神社で祈りをささげるときには、

 

「この世での役割をしっかりと果たしていけるよう、どうかお導きください」

 

ということばが口をついて出てきます。

 

 

 

人にはそれぞれ果たすべき役割というものがあって、

 

それがあるからこそ、肉体を持ってこの地に誕生したのだと、

 

私は、そのように考えています。

 

 

 

「役割」は、どんな人にも、かならずあるのだと思います。

 

世界全体がひとりの人間のからだだとすると、

 

たとえばそこには、脳を構成するひとつの細胞の役割を担う人もいるだろうし、

 

目の細胞の人もいるだろうし、

 

心臓の細胞の人もいるだろうし、

 

肝臓の細胞の人もいるだろうし、

 

血液の中のひとつの血小板の人もいるだろうし、

 

膝の骨を構成する人もいるだろうし、

 

足の小指の爪の細胞の人もいるでしょう。

 

それらひとつひとつの役割に優劣なんてものは一切なくて、

 

ただただ、「全体」をそれとして成り立たせるために必要だから、

 

ひとつひとつがその場所に配置され、

 

それぞれの役割を果たすことを求められているのだと思うのです。

 

 

 

ここで大切なのは、「求められている」役割を果たすことです。

 

役割は、実は最初から決まっているんです。

 

脳は脳、心臓は心臓、骨は骨、爪は爪。

 

それ以外には決してなれないんです。

 

心臓が髪の毛になりたがり、足の爪が腸になりたがり、脳が大腿骨になりたがり、

 

憧れ募って、いざ、実際の自分の役割を放棄してしまったとしたら、

 

「ひとつのからだ」としては、もう、一切、機能しなくなってしまうわけです。

 

 

 

いや、自分の役割でないものに憧れてしまう気持ちは、ものすごくよくわかります。

 

自分から遠い存在であればあるほど憧れは募るものです。

 

自分との違いが、ギャップを生むんですよね。

 

そして、ギャップが生み出す高揚感に、人は惹きつけられるんです。

 

だってそれはわかりやすく派手だから。

 

 

 

それに引き替え、自分の果たすべき役割っていうのは、ものすごく地味に見えます。

 

自分にとって当たり前すぎて、そこにギャップが生まれないから。

 

でも、「ギャップがない」ということは、「無理なくできる」ことの証でもあって、

 

それって、実は、ものすご~く重要なことだったりするんですよね。

 

 

 

自分が果たすべき役割を、一切の力みなく、ごくごく自然にやれているとき、

 

そこには、「しあわせ」だけがあります。

 

「個別の自分」というものを飛び越えたところに存在する、

 

すべてを「自分」として生きる「しあわせ」です。

 

圧倒的な安心感とともにある、じわじわ、ひたひたとした、「ほんとうのしあわせ」です。

 

「ほんとうのしあわせ」の前では、ギャップが生み出す高揚感なんか目じゃないです。

 

 

 

自分の果たすべき役割は、いつだって目の前にあるのだと思います。

 

「いつか」「どこか」ではなく、「いま」「ここ」を見つめ、そこにあるものを受けいれたときに、

 

この世界との約束が果たされるのではないかな。

 

 

 

自分だけの役割を、見出して、受けいれて、ひたすらに果たして、

 

「ほんとうのしあわせ」を、生きていきましょう。